大学は雪山の上にあった
断れない空気でスキー部へ
高校まではサッカーをやっていました。ところが一橋大学に入学した途端、体育会スキー部の先輩たちが校門で待ち構えていたんです。「息子さんですよね、お待ちしております」と言われて、毎日ご飯を奢ってもらって。もう「ノー」と言える雰囲気ではありませんでした。
私の父もクロスカントリースキーの経験者で、私はもともとアルペン志望だったんですけど、入部を決めた途端にアルペンの先輩から「お前はサッカーで走れるポジションだったんだから、ノルディックに行った方がいい」と言われて、ノルディック部門に回されました。そこからさらに「せっかく黒缶(クロスカントリー)を走るなら複合をやれ」と勧められて、スキージャンプまでやることになったんです。
怪我をしても辞められない
ジャンプ台に初めて立った時は本当に怖かったです。同期が私の前で1時間半粘って、それでも飛べなかったくらいですから。私は飛んだ結果、初ジャンプでこけて右手首を複雑骨折しました。それでもジャンプはやめさせてもらえず、結局4年間続けることになりました。
複合競技を選ぶと、クロスカントリーとジャンプに加えて単独のジャンプ競技にも出場でき、リレーメンバーに選ばれればさらにもう1種目、合計4種目にインカレで出場できると聞かされ、その気にさせられてしまったんです。
今も続くノルディック仲間
大変でしたけど、粘って良かったと思っています。マイナー競技だからこそ、国公立の六大学戦やインカレで戦う相手ともすごく仲良くなるんですよ。今、私が一緒に山登りに行っている仲間のほとんどが、当時のノルディックのライバルたちです。東大や京大、阪大の元ライバルたちで、今も文部科学省の官僚をやっている友人もいます。あの怪我のところでやめていたら、この仲間はできていなかったと思います。
家業を継ぐと決めるまで
父の「たわけもの」訓
父は「男3人兄弟を全員会社に入れるようなことはしない」とはっきり言い切っていました。経営は一子相伝であるべきだと。「たわけもの」という言葉の語源は「田を分ける者」で、田畑を兄弟で分け続ける農家がどんな豪農でも何代か後には零細農家になってしまうことに由来する、と何度も聞かされました。そして父は「三男だからダメ」と言っているわけではなく、「ふさわしいタイミングでふさわしい人間を選ぶ」とも言っていたんです。
選ばれるために動いた
祖父からは「お前がやれ」と言われ、弟も小学校の卒業文集に「将来は社長」と書くような子供でした。父の話と祖父の話の整合性を取るために私がやるべきことは一つ、「選ばれる人間になる」ことだと思っています。
メーカー就職で示した本気
一橋大学は渋沢栄一の言う「商人」を育てる大学なので、金融業界に進む人が多いんです。しかし、父が「日本の経済はメーカーがつくっているんだ」とよく言っていたのを知っていたので、私は金融は一切受けず、メーカーだけを受けました。大手自動車メーカーと大手繊維メーカーから内定をいただいたのですが、フルオーダースーツのメーカーである家業に近い繊維メーカーを選び、自動車メーカーを辞退したんです。採用担当の方には「大手を蹴るなんて大丈夫か」と驚かれました。
経営が厳しかった時代
数字と向き合う日々
いよいよ会社のために力を発揮できると勇んで戻ったのですが、実態は想像以上に厳しいものでした。当時は金利負担も大きく、黒字化を最優先の目標に据えることにしたんです。父と一緒に、出足の速さと手数、そしてPDCAサイクルを回すことに集中しました。結果として翌期には営業利益を7,000万円まで改善できています。
資金繰りとの格闘
利益が出ても、まずは財務基盤を整えることを優先していたので、資金繰りには常に気を配る日々でした。設備投資も慎重に進める必要があり、仕入れ先とのやり取りも一つひとつ丁寧に調整しながら乗り切っていきました。
金融機関との再建プロセス
その後、メインバンクから、収益力の立て直しを条件に財務体質を整える提案をもらいました。当時、収益力はあるのに過去の負担に苦しむ企業を再生させる国の施策が進んでいた時期で、うちもその対象になったんです。この過程では、先代の時代の決算に関する見直しが必要になる場面もあり、社長として一つひとつ丁寧に説明しながら乗り越えていきました。
家族と歩んだ再建期
会社の再建期には、家族にとっても大きな出来事が重なった時期でした。当時、私自身は一度経営の現場から離れ、サラリーマンとして働きながら家族を支える生活を送っていたこともあります。今振り返ると、あの時期があったからこそ、経営者として何を大事にすべきかを強く意識するようになったと感じています。
震災、そして呼び戻される
リーマンショックとファンド撤退
サラリーマン時代にリーマンショックが起こり、支援してくれていたファンドが撤退してしまいました。その後、新しいスポンサーが見つかったのですが、今度は東日本大震災が起こります。
震災で工場が被災
宮城にあった国内工場が被災し、会社は赤字に転落しました。新しいオーナーも「もう面倒を見きれない」と手を引いてしまったんです。
銀行の一本の電話で復帰
その後、当時のメインバンクの担当者から「戻ってこられませんか」と連絡をもらい、私は経営に復帰することを決めました。
小売りへ大転換
震災で売上の3分の1ほどを失った状態から、「震災で失った売上を小売りで取り戻す」という戦略を掲げました。それまで製造卸がほぼ100%だった事業モデルを転換し、取引先だったテーラーがどんどん減っていく中で自社の店舗出店を進めていったんです。今では売上の9割が小売りになり、年商はおよそ45億円まで回復しています。
広報担当社長、始めました
広報費がないから自ら出る
小売りで知名度と信用度を上げていくには広報活動が欠かせません。その一方で、広報の専任担当者や代行会社に頼むお金はありませんでした。そこで、私自身が「広報担当社長」として発信していくことにしたんです。
スーツで富士山に登る
ちょうど海外のYouTubeで、社長自らが自社製品で目立つ動画がバズっているという話を社員から聞きました。私自身が登山を趣味にしていることを社員全員が知っていたので、「社長がスーツで富士山に登ったらバズりますよ」と提案されたんです。2013年に富士山が世界遺産に登録されたタイミングで実行したところ、最初は「山を舐めるな」という批判のコメントが殺到しました。ですが、それを上回る好意的な反響がその後から集まり、新聞社の取材にもつながったんです。
山も海も、スーツで挑む
これをきっかけに、登山を軸にした発信を続けています。日本百名山のうち80座をスーツで登頂していて、残り20座を登り切れば記録として挑戦できるのではないかと考えています。海外の高峰にも挑戦していて、ヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ、そして標高7,000m弱のアコンカグアにもスーツ姿で登頂しました。趣味の魚釣りから派生して、スキューバダイビングの上級ライセンスを取得し、水深30mまで潜ったこともあります。
もう一度スキージャンプへ
学生時代にスキージャンプをやっていた経験を生かして、ジャンプの第一人者と一緒にジャンプ台に立つ企画に挑戦したこともあります。こうした発信を積み重ねてきた結果、YouTubeの複数チャンネルの登録者数は合計で20万人を超えるまでに成長しました。
スポーツと共に歩む
知名度と信用度を高める取り組みの一つとして、プロスポーツチームへのスーツ提供にも力を入れています。Jリーグでは複数のクラブに、プロ野球では球団に、Bリーグでも複数のクラブにフルオーダースーツを提供しています。「体にジャストフィットするスーツはさまざまな体型のプロアスリートにも合う」という強みを、こうした取り組みを通じて伝えています。
編集後記
今回のインタビューを通して、経営を継ぐということの重みを痛感しました。学生の私たちは、就職や進路の選択を「自分の人生の一大事」と捉えがちですが、佐田さんのお話を伺って、その先には会社や家族の歴史そのものを背負う瞬間があるのだと知りました。厳しい時期を乗り越えながら、最後は「スーツで富士山に登る」という発想に転換していく発想力にも驚かされました。逆境の中でも自分にできることを探し続ける姿勢を、これからの就職活動やキャリア選択の中で大切にしていきたいと思います。