家業に入るまで
アーティストを目指して渡米
私は静岡県浜松市にある、プラスチックリサイクル企業の2代目です。創業者は父ですが、私自身はもともとアーティストを志し、アメリカへ留学していました。渡米にあたり、母から「自分の力で行かなければ意味がない」と背中を押されたこともあり、費用の一部はアルバイトで貯めた資金を充当。両親のサポートもしてもらいながらアメリカの大学に通いました。
家族からの 1 本の電話
そんなアメリカでの生活の最中、日本の家族から 1 本の電話が入ります。内容は、会社が貿易をめぐる大きなトラブルになり会社も家族も大変な事になっているという内容でした。その状況はかなり切迫したものでした。当時の留学仲間には、半学期休学してア ルバイトで生活費を稼ぎ、再び学校に戻るような人も珍しくありませんでした。そのため、私も日本に戻って一度アルバイトをして資金を貯め、また学校へ戻ればいいと思っていたのです。しかし、帰国した私を待っていたのは、まるでお通夜のように沈み返った家の中と、心労で寝込んでしまった母の姿でした。事の重大さを察した私は、すぐに休学手続きをとり、父の会社へ入ることを決意しました。
入社初日に起きたボイコット
ところが、覚悟を決めて入社したまさにその日、工場で働いていた現場の要となるスタッフ3名から「ボイコットだ、今日で辞める」と告げられました。当時の従業員は、父やドライバーを含めてもわずか 6 名ほど。文字通り、現場の主力が一瞬にして失われたのです。残された少数のメンバーで銀行への返済を続けなければならない、まさに…… という極限の状況でした。当然、当時の私にすぐできる仕事などありません。まずはちょっとした肉体労働と事務処理、そしてお茶くみや電話番といった、自分にできる泥臭い一歩からのスタートでした。プレハブのような小さな工場が、私のキャリアの原点です。
道が途絶えて見つかったもの
帰れなくなったアメリカ
「半年か 1 年ほど手伝えば、またアメリカに戻れるだろう」。当初はそんな淡い期待を抱いていました。しかし、今度は貿易業務を担っていた姉が大怪我を負ってしまい、私がその実務を引き継がざるを得ない状況に陥ったのです。当時はまだ22歳、資金を貯めてニューヨークの学校に編入するつもりでいたものの、トラブルが続いてだんだんと抜けられなくなっていきました。当初は本業へ真面目に向き合う気など1ミリもなかったのです。
30 歳で代表に、立場が教えてくれたこと
父の突然の引退で社長に
私が30歳を迎えるころ、父が突然「俺は会社を辞める」と引退を宣言しました。父はいわゆる「昭和の頑固親父」を絵に描いたような人で、常に周囲を威圧する厳しさを持っていました。当時の私の役職は課長で、直属の上司は社長である父のみ。その時は「私しかいない」という状況だった為、わずか 2~3か月の引き継ぎ期間で代表取締役に就任することになりました。私が最初に入社した当時は 2 億円ほどだった売上は、この代表交代のタイミングには15億円規模にまで拡大していました。
元上司が部下になった
代表に就任したその日から、昨日まで私の上司だった40代、50代のベテラン社員たちが、すべて私の「部下」となりました。昨日まで「これをお願いします」と頭を下げていた相手に対し、今度は「このように進めてください」と指示を出さなければなりません。当然、相手からすれば「なぜ年下の若造に」という反発や戸惑いもあり、メンタル面はボロボロでした。経営者の経験もそれほどなく、経営の知識もない。「こんな未熟な自分がトップでいいのだろうか」と、毎日のように自問自答し、苦悩する日々が続きました。
立場が人をつくる
暗中模索のなか、知り合いの方と会食をご一緒する機会に恵まれました。不安を打ち明けると、その方はこう言ってくださったのです。「立場が人をつくるんだよ。最初から立派な社長でなくても、周りが盛り立ててくれるから」。その言葉で、憑き物が落ちた ように心が軽くなりました。優れた器があるからトップになるのではない、一流の経歴や肩書がなくても、社長になっていいんだ、と思えたのです。そこから、器があるかではなく、私でもいいのかもと代表になる決心がついた時から少しずつ代表らしくなっていったと思います。
リサイクルと輸出入で広げた事業
リサイクルは父の事業
私たちのビジネスのルーツは、日本のものづくりの中心地である浜松にあります。スズキ様やヤマハ発動機様、ヤマハ様といった日本を代表するメーカーの製造工程から排出されるプラスチック廃材を引き取り、それをリサイクルして再び同じ企業へ素材としてお戻しする。いま世界中で叫ばれている「サーキュラーエコノミー(循環型経済)」の仕組みを、父は数十年も前から実践していたのです。「資源なき日本だからこそ、いつか必ずリサイクルして再利用する時代が来る」。父にはその確信があったのでしょう。しかし、時代の移り変わりとともに、原油価格の高騰や為替の乱高下、それからリーマ ンショックといった数々の荒波が会社を襲いました。
ピンチが転機だった
当時の私たちは、いわゆる加工賃(委託料)を主たる収益源としていたため、大手企業のお客様から「今は安い原油で作る材料でいいから、再生されたプラスチックは必要ない」と言われれば、一瞬にして従業員の給与支払いが滞るビジネスモデルでした。従業員の給与が支払えないという危機的状況に瀕したとき、輸出入業務を本格化させ、海外市場という新たな販路を次々と開拓していきました。会社の存続危機という最大のピンチこそが、事業モデルを劇的に転換する契機となったのです。まさに「ピンチはチャンス」を体現し、現在では売上170億円を誇る企業へと成長を遂げました。最先端かつ多角的な事業展開を行っているため、現在の公式ホームページだけでは、私たちの真の姿が伝えきれていないとも感じています。
運賃を抑える拠点づくり
日本は世界的に見ても物流コスト(運賃)が非常に高い国です。車両の維持費、燃料代、高速道路料金など、物を「運ぶ」という行為そのものに多大なコストが発生します。例えば、北海道にある資源を浜松まで輸送するだけで、莫大な費用がかかり採算が合いません。だからこそ、私たちは全国の主要地域に自社工場を分散配置し、物流コス トを最小限に抑える戦略をとっています。現在は浜松の本社のほか、福島、栃木、岡山、東広島に自社工場を展開しており、近く釜石市にも新拠点が稼働予定です。これにより国内 6 拠点体制が確立されます。「適地で安く調達し、最もそれを必要としている市場へ届ける」。世界中のお客様とダイレクトにつながるネットワークがあるからこそ、このダイナミックなビジネスが成立しています。
困りごとに寄り添う営業
当社の営業スタイルは非常にシンプルです。営業メンバーが定期的にお客様のもとへ足を運び、「何かお困りごとはありませんか?何か必要な事はありませんか?」とヒアリングを重ねることからすべてが始まります。「最近ゴミの量が増えて、処理費用がかさんで困っているんだ」というご相談をいただければ、まずは現場へ行き、現物を確認します。他社では処分費用を請求されるような廃棄物であっても、私たちの目から見れば、お金を支払って買い取れる価値ある資源であることが多々ありました。それを高度にリサイクルし、その材料を必要としているお客様へと繋いでいく。国内・海外を問わず、徹底的にお客様の「困りごと」に寄り添うことで、私たちは業績を伸ばし続けてきました。そのため、当社の営業にはいわゆる「ノルマ」がいっさい存在しません。数字を追う営業職というよりも、環境アドバイザーや経営コンサルタントに近い本質的な役割を担っています。
これから一緒に働く人へ
新卒にこだわらない
現在、当社の社員数は約100名で、そのうち60〜70名ほどが工場の最前線で現場を支えてくれています。私たちの採用活動において、「新卒」という枠組みへのこだわりはありません。素晴らしいマインドを持った方であれば、卒業年次を問わず、いつでもお会いしたいと考えています。現在、東京駅直結の丸の内ビルディングに東京支店を構えています。将来的には東京を拠点に活躍していただくキャリアパスも用意しています。私たちが今求めているのは、単にモノを売る営業職ではなく、企業の環境課題をともに解決する「環境アドバイザー」としての仲間です。
副業や在宅の仲間たち
当社には、完全在宅や副業という柔軟なスタイルでコミットしてくれる仲間が世界中に存在します。イタリア、カナダ、アメリカ、韓国など、国籍も居住地も多種多様です。例えば、イタリア在宅のスタッフには、問い合わせ窓口を統括してもらっています。業務効率化のため、当社では数年前に電話とFAXを完全に廃止し、新規受付をメールに一元化しました。海外クライアントとの Web ミーティングへの同席や、貿易実務、物流の手配、データ入力といったバックオフィス業務など、時差やライフスタイルを活かして活躍していただいています。「育児の合間の数時間を有効活用したい」といった、個々の都合に合わせた働き方を全面的に推奨しています。
人生に向き合う人と会いたい
面談の場で私が何よりも大切にしているのは、「自分の人生にどう向き合いたいか」を飾らない言葉で正直に話してもらうことです。当社は入社後の初期研修に多大なリソースを割き、丁寧に育成を行うため、お互いの成長のためにも最低3年は腰を据えて共に働きたいと考えています。もし「将来的に別のステップを目指している」といったビジョンがあるなら、最初からオープンに教えてください。「この会社という環境を活かして、自分自身の市場価値を高めたい」「ここで力をつけて次のステージへ羽ばたきたい」という前向きな野心があるなら、私はその挑戦を全力で後押しします。逆に、お互いの目指す方向性が合わなければ、「うちではなく、他の会社の方が君の人生のためになる」とはっきりとお伝えすることもあります。私は仕事に対して厳しい人間ですが、そこには関わる人の人生に対する最大限の「愛」があると自負しています。
女性が輝く製造業へ
私自身、子育てをしながらこの会社の代表を務めています。世間一般において、製造業やリサイクル業界はまだ「きつい、汚い、危険(あるいは臭い)」という、いわゆる3Kのネガティブなイメージを持たれがちです。しかし私は、この会社を「クリーン で、洗練されていて、誰もがキラキラと誇りを持って働ける場所にしたい」と本気で願い、変革を続けています。女性が働きやすい職場環境は、結果として男性にとっても、あらゆる多様な人材にとっても働きやすい場所になるはずです。学歴や職歴、年齢といった既成概念の枠にとらわれず、「この指とまれ」で心から響き合える仲間と、これからの新しい未来を創り上げていきたいと考えています。
編集後記
入社初日に従業員が一斉に辞めるという状況から、会社を引き継ぎ、売上170億円規模まで育てた雪下社長。「会社を自分の作品にする」という考え方に、仕事をアートのように楽しむ姿勢を感じました。「立場は人をつくる」という言葉は、学生起業を考えている私にとっても、背中を押される思いです。また、お客様の困りごとに寄り添う姿勢が、事業の原点になっていることも印象的でした。ノルマのない環境アドバイザーのような仕事は、製造業のイメージを大きく変えてくれると感じます。リサイクルを通して社会課題に向き合う仕事に、ぜひ注目してみてください。