インタビュー

「無理と言わない」社長は、3週間で2億円を集めた

株式会社サンロッカーズ 代表取締役社長 神田 康範
PROFILE
株式会社サンロッカーズ 代表取締役社長
神田 康範

海外や言語に興味を持った学生時代

アルファベットではない言語を勉強したかった

大学生の頃は語学をいろいろ勉強していました。専攻はアラビア語です。アルファベットではない言語をしてみたかった、というくらいの気持ちだったんですよね。難しそうに見えると思うんですけど、実はそこまで難しくないです。

学生時代は1年休学して海外に留学もしていました。海外だったり言語だったりに興味を持って動いていた学生だったと思います。

スポーツメーカーに入社

当初は、パイロットになりたかったので大手航空会社を2社受けました。大手航空会社は最終選考近くまで進みましたが、ご縁があり、最終的には、新卒でスポーツメーカーに入社しました。

スポーツメーカーで7年、日本とアメリカで

新卒で入ったスポーツメーカーでは、トータルで7年間在籍しました。最初の2年間は日本で、そのあと5年間はアメリカに赴任し、マーケティング部門に在籍していました。

その後、30歳のタイミングで帰国しました。もう少し選手寄りの仕事をしてみたいと思うようになり、30歳からはアスリートマネジメントの世界に入りました。

世界的なプロサッカー選手の個人マネージャーに

帰国後はPR会社を経て、世界的なプロサッカー選手のマネージャーを個人で5年間務めることになりました。

世界的なプロサッカー選手側から会社経由で直接声をかけてもらったのがきっかけです。とくにマネジメントの実績があったわけではなくて、海外経験があり、年齢もそこまで離れておらず、ビジネス経験もある程度ある、といった条件で探していたところに、私が引っかかったんだと思います。

広告営業も自分でこなした

メーカー時代からずっと選手の近くにいて、プロゴルファーのマネジメントなどにも関わっていたので、動き方自体に戸惑いはありませんでした。マネージャー業だけではお金を生むわけではないので、彼の広告契約やCM出演を決めてくる営業のような動きも必要でした。ですが、当時は肖像価値がちょうどピークの時期で、私からアグレッシブな営業をしなくても声をかけてもらえる、売り手市場だったので、そこまで大変ではなかったです。

選手が買収したクラブの社長として、オーストリアへ

財務三表も知らずに始めた経営

プロサッカー選手のマネージャーをしていた5年間の後半、彼がオーストリア・ウィーンのプロサッカークラブを買収し、その社長を任されました。現地に法人を新しくつくり、日本の会社が遠隔で見るのではなく、あちらで株式会社をつくって経営をしていました。何もわからない状態でほぼ全部手探りでしたし、財務三表もそこから勉強したくらいで、最初の1年はなにをやっているのかわからない感覚もありました。やらないと進まなかったので、必要な知識はやりながら自然と身についていったと思います。

言語より経営の壁が高かった

業務は基本的に英語ベースで進めていて、ドイツ語しか話せない人には英語とドイツ語の通訳を挟んでもらっていました。言葉が上手かどうかよりも、経営をどう進めるかのほうがずっと難しくて、言語の壁より経営に飛び込んだことのほうが大変でした。オーストリアには2年間いました。

バスケットボールクラブ社長に転身

競技が変わっても経営は変わらない

帰国後、選手のそばから一度離れようと思い、会社を辞めて、福岡のバスケットボールクラブの社長になりました。これも声をかけてもらったのがきっかけです。サッカーからバスケットボールに競技が変わっても、経営としてやることはまったく同じでした。

2シーズン目に訪れた資金危機

福岡には2シーズン在籍しました。2シーズン目に経営危機が起きました。入ってくる予定だったお金が入らず、会社がなくなりかけるところまでいきました。最終的には別のオーナーを見つけて事なきを得ましたが、この危機をようやく乗り越えたタイミングで退任しました。

3週間で2億円を集めた話

株の売却権を託された

福岡のクラブがB1というトップリーグに昇格した翌年に、資金難が表面化しました。3週間で2億円を集められなければリーグから除名される、という通達を受けたんです。当時のオーナーが株式を100%持っていたんですが、そのオーナー自身がお金を払えなくなっていたので、株の売却権を私に預けてもらうしかない、とオーナーを説得しました。

全国の企業に会見で呼びかけた

株を3週間以内に2億円で売る、という条件で動き回りました。株の売買の知識はまったくなかったんですが、財務三表を持って、資金が2億円足りないので身売りをします、という会見を開いたところ、全国から買いたいという企業が一気に集まりました。前半の2週間は東京の企業をまわって、これくらい借入をして、これくらい資金調達をすれば取得できます、という説明をして、最後の1週間で福岡の企業から声がかかり、そこに売却できました。このときの経験は、人生のターニングポイントのひとつだったと思います。

独立リーグをゼロからつくる

球場づくりから始まった野球リーグ構想

福岡のクラブを退任したあとは、新しいことをやろうと思い、九州アジアリーグという独立リーグを立ち上げました。きっかけは、知り合いの社長から「球場をつくりたいけれど、チームがないとできないから、とりあえずチームをつくってほしい」と言われたことです。チームをつくっても対戦相手がいないと試合ができないので、リーグごとにつくることにしました。

年に1チームずつ増やす仕組み

まず熊本をベースに探して、熊本にあった社会人チームを引き受けてプロ化しました。北九州は著名な実業家に声をかけて、選手集めから監督招へいまでゼロからチームをつくってもらい、大分にも新しくチームをつくりました。1年後には宮崎からも参加したいという話があり、年に1チームずつ増やしていくビジョンで運営していました。私自身は最初の4シーズンに関わり、そのあとに現職の話をいただいたので、九州アジアリーグの仕事は区切りをつけて今に至ります。

そして東京サンロッカーズへ

一度離れたバスケへの思い

いろいろな仕事をやってきましたが、バスケットボールに関しては、福岡のクラブを一度退任した経緯があったので、いつかもう一度携わらないといけないな、という思いがずっと心にありました。バスケに戻るというのは私の中で決めて動いていたので、今回声をかけてもらったのは、そのタイミングが来た、という感覚に近いです。

3年以内に日本一を目指す

東京サンロッカーズには、日本代表クラスの選手が多く在籍していて、キャプテンも代表選手です。加えて親会社がエンターテインメント企業なので、演出面で親会社の協力を得ながら、より楽しい体験を提供できると考えています。ここが、ほかのクラブとの一番の差別化ポイントになると思っています。会社としては、3年以内の日本一を目指しています。

スポーツクラブの経営は、普通の企業とは違う独特のやりがいがあります。挑戦して乗り越える喜びはどの企業にもあると思うんですが、スポーツクラブの場合は、勝てば言葉にできないくらいの高揚感がある一方で、負ければ1週間くらいやる気が出なくなるくらいの一喜一憂があります。自分たちで運営して、お金を集めて、選手を連れてきて、それが勝ち負けというかたちで返ってくる。お客さまが喜んでいる姿を直接見られるというのも、普通の企業にはなかなかないことだと思っています。

その一方で、勝ち負けに経営が大きく左右されないように運営するのも大事なことです。勝ち負けは水物で、怪我人が出れば勝ちにくくなることもあるので、そこに頼り切った経営はしないようにしています。勝てばいい方向に進みますが、負けても悪い方向にいかないように、あらかじめ備えておく必要があると思っています。

経営者として大切にしていること

「無理」を自分の言葉から消した

経営者として、というよりは生活全般で大事にしているポリシーがひとつあります。「無理」という言葉を自分自身、一切使わない、ということです。10年ほど前、マネジメントしていたプロサッカー選手と一緒に「無理と言わないようにしよう」と決めてから、ずっと続けています。

編集後記

神田さんのキャリアには驚くことばかりでした。就活をほとんどせず、声をかけられるまま動いてきたように見えて、実は「人の縁」を大事にする姿勢が一貫していると感じました。3週間で2億円を集めた話は、経営の知識よりも先に行動する胆力の大切さを教えてくれます。「無理」と言わないという小さな習慣が、大きな決断を支えているのかもしれません。