挫折と出会いが育てた原点
野球一色の少年時代
大阪で生まれ育った私は、小学校1年生から中学3年生までずっと野球漬けの毎日を過ごしていました。中学3年生で野球部を引退してからは受験勉強に切り替え、「この学校で甲子園を目指したい」と思えた高校に進むことができました。
才能の壁に直面した高校1年生
ところが、その高校1年生のときに野球を辞めてしまいます。大きな挫折を味わいました。入学した高校は、その年の春の甲子園に出場しており、3年生と同学年にはプロになった選手もいました。才能の違いでこれほどパフォーマンスに差が出るのかと、自分との差を目の当たりにしてしまったことが、一番大きな要因だったと思います。
野球部を辞めてからしばらくは、高校に行っている意味をなかなか見出せないままでした。
再起のきっかけとなったひと言
転機になったのは、中学時代に通っていた進学塾の塾長のひと言です。高校の制服を着たまま久しぶりに塾に顔を出したとき、「そんな感じならもう帰ってこなくていい」と。優しい口調でしたが、今まさに受験勉強に取り組んでいる後輩たちにとって、「このようになりたいと思える先輩であってほしい」という想いで、苦楽をともにして志望校に送り出した塾の卒校生を何とか更生したいという想いで言ってくれた、厳しくも温かいひと言だったと、いまでも振り返ると思います。その後も、高校3年生になると当時の野球部の部長さんが担任のクラスに迎え入れてくれ、絶えず気にかけていただいて、激励をいただきながらリカバリーでき、大学に推薦で進学することができました。
コンサルタントへの道
大学で見えてきた経営の面白さ
大学では経営学部に進みました。ぼんやりと将来は企業したいと考えていたので、経営に関して学びたいとの想いでした。社会課題に対して企業がどのように向き合っていくべきか、欧州の国際機関等を訪問し、先進の研究や事例を学びにいくプログラムにも参加させていただきました。学業と合わせて、バレーボールサークルの部長として組織を束ねる立場での経験が、その後の思想につながっていきます。
大学3年生のゼミで『人的資源管理論』を選択したのも、バレーボールサークルで「どうやったら人が活きるのか」と向き合っていたからです。人的資源の活かし方を学問として学びながら、組織の中でそれを実践していく。”ヒト”という資源を育て、活かしながら、組織として成長していくというアプローチに面白さを感じていました。
門前払いから逆オファーへ
卒業後はコンサルティング業界1本に絞って就職活動をしましたが、外資系トップファームは全て門前払い(書類不合格)でした。それでも「戦略コンサルタントとして社長に近い仕事をしたい」という思いで、わずかな可能性に懸けて、当時まだベンチャーでコンサルティング会社としてリブランドし始めたばかりのベイカレント・コンサルティングに入社しました。
ところが入社後3年間はずっとエンジニアとして、コンテンツ配信会社の情報システムを担当することになります。インフラエンジニアとして、WEBサーバーやメールサーバーを構築したり、社内・会社間ネットワークの疎通確認をしたりと、まったく想定していなかった仕事でした(笑)。それでも3年目の終わりにようやく戦略コンサルタントとして案件に携われるチームに異動できて、そこからが本番でした。
入社から5年が経った頃に、就職活動のときに門前払いだった外資系コンサルファームから「ぜひ金融グループを一緒に立ち上げてもらいたい」と声を掛けていただきました。当時のEYアドバイザリー(現在のEYストラテジー・アンド・コンサルティング)への転職です。そちらでは金融機関向けの機能戦略立案と推進、金融事業への異業種参入支援や新規事業立ち上げ、マーケティング高度化支援などを担い、28歳でマネージャになりました。
「社長と仕事をしていない」という気づき
EYでマネージャに上げていただいてふと振り返ったとき、「コンサルティング業界に飛び込んだ動機である経営の中枢に関わる案件、つまり社長と一緒にできる仕事を、自分はまだしていないな」と思ったんです。事業戦略・機能戦略に関わる案件は携わることはできているけれど、もう一段上の経営レイヤに関わりたいという想いと、EYの金融チーム立ち上げメンバという下駄(先行者メリット)を外したときの一人のコンサルタントとしての正味価値で今一度挑戦したいという想いを持っていた際に、縁あってジェンパクトコンサルティングの社長をご紹介いただき、転職することになりました。
入社時の職位は「シニアコンサルタント(マネージャの1つ下)」となることも受け入れ、それぐらいの覚悟で頑張ろうと新天地に飛び込みました。結果としては入社3カ月でマネージャに上げていただき、上場企業の構造改革など社長との案件に携わることができました。ジェンパクトコンサルティングに在籍した1年間は、コンサルタントとして最も困難な経験をしました。プレッシャーに押しつぶされそうになり全身に蕁麻疹が出るほどでしたが、それぐらい密度の濃い1年間でもありました。
「輸入」から「輸出」へ。創業10年のビジョン
外資コンサルで感じた危機感
外資系コンサルティングファームに在籍して理解したことの一つは、コンサルティングのメソドロジーは、欧米企業が欧米企業を支援してきた結果として生まれたものであるということです。それを日本法人が輸入してクライアントである日本企業に提供している。当時、それが日本市場のコンサルティング業界の基本的なスタイルでした。
ジェンパクトコンサルティングの親会社であるGE(ゼネラル・エレクトリック)では、グローバル本社が示したブループリントによる意思決定スピードと影響力の強さに驚きました。グローバルコングロマリットとしての経営統治を目の当たりにし、あくまで自分は『日本支店』のコンサルタントであるという立ち位置を認識することになります。
そのうえで、未来にかけて人口の減少傾向が続き、国内マーケットとしては縮小していく日本企業が生き残りをかけてグローバル市場に打って出ていく際に、クライアントを支援する我々コンサルタントが、従来通りの輸入モデルに頼っていて、本当にクライアントに価値あるサービスを提供し続けられるのか。その危機感を抱くようになりました。
デジタルアーツとの出会いが創業へ
同じ時期に、EY時代にお付き合いのあったデジタルアーツ株式会社(以下:デジタルアーツ社)の社長と面談する機会をいただきます。デジタルアーツ社は、国産のサイバーセキュリティソフトウェアを開発・販売するメーカーであり、当時は国内だけでなく北米・欧州・アジアに輸出をしていました。
デジタルアーツ社の事業と展望に触れ、コンサルティングビジネスも輸入モデルから輸出モデルに変えなければという想いが明確になり、サイバーセキュリティの領域であれば可能性は大きいと感じました。創業する2016年当時は、もちろんサイバーセキュリティ領域のコンサルティング市場は無いに等しく、これから市場を創っていくという想いで、デジタルアーツ社に出資をしていただき、立ち上げたのがデジタルアーツコンサルティング株式会社(現在のアイディルートコンサルティング株式会社)になります。
大学進学時の「いつか経営者に」という漠然とした考えも、このタイミングで実際にスタートすることになります。
仲間を迎え入れることで壁を越えた
とはいえ、サイバーセキュリティは私にとっては専門外であり、キャッチアップは相当苦労しました。会社としてその壁を越えられたのは、同じ想いを持って動いてくれる仲間を迎え入れられたからです。
特に採用においては、合理的な意思決定を徹底しました。会社が成長するために必要なら、何がなんでも迎え入れる。経営の意志として、あらゆる場面でそういう判断をしてきたことが大きかったと思います。
創業から10年、我々はDX戦略からサイバーセキュリティまでをワンストップで支援する体制を整えてきました。AI時代を迎えて、私たちの存在価値はさらに高まってきていると感じています。
学生へのメッセージ
見たい景色は自分の手で描く
私の生い立ちを聞いていただいたとおり、最初から才能に溢れていたわけでもなく、挫折も経験してきました。それでも、認識が甘かった学生時代に描いた「経営しよう」という想いは私でも実現でき、10年の歩みを進めることができました。
皆さんが見たいと思っている景色は、ぜひ自分の手で描いて、創っていくことに挑戦してほしいと思います。いままさに学生時代を送られている皆さんは、もっと壮大な想いを持ち、またそれを実現できる世代だと、強く感じています。
編集後記
松本さんのお話で印象的だったのは、挫折のたびに「意味を問い直す」という姿勢です。野球の挫折、彷徨った高校時代、全身蕁麻疹が出るほどのハードワーク──それぞれの局面で逃げるのではなく、環境や他者からのフィードバックを受け止めて動き続けてきた軌跡でした。「コンサルティングの輸入モデルから輸出モデルへ」という創業の思想も、業界全体を俯瞰したうえでの問題意識から生まれたものです。目の前の仕事に向き合いながら、同時に「自分は何のためにここにいるのか」を問い続けること。そのしなやかさが、10年という歳月を支えてきたのかもしれないと感じました。