官僚志望から銀行員へ
東大で官僚を諦めた
大学は東大の経済学部です。もともとは官僚になりたくて東大に入学しました。ところが入ってみると優秀な方がいっぱいいますし、先輩で官僚になった人たちと話をしたときに、この人たちと一緒に仕事はしたくないな、という思いになってしまいました。いい面も悪い面もある話ですけれど、それで銀行に就職しました。
20年目で銀行を辞めた
大手金融機関で20年ほど勤めました。仕事は多分できたほうだと思うのですけれど、上司とぶつかることが結構ありましてね。「これでは支店長にもならないんじゃないか」と思ったときに、やっぱり経営をやってみたいという気持ちが出てきました。プラスで言えば経営がしたかった。マイナスで言えば銀行での先が見えた。その両方です。
転職を重ねた10年
二代目社長と合わなかった
最初に移ったのは300人ほどの会社で、廃棄物の処理運搬・処分をやっているところです。一年ほどで、もともとやりたかった経営企画の立場になり、役員にもなりました。ちょうど同じころに創業社長が代替わりしましてね。二代目の社長と折り合いが悪くなってしまいました。経営企画は社長と近い距離で動く仕事ですから、そこがうまくいかないと何もできないんです。
一年で逃げ出した上場企業
すぐに当時ジャスダック上場の会社から声がかかって、企画の課長として入社しました。ところがそこは産業機械のメーカー、いわゆるBtoBの会社です。上場企業ですからIR活動があるんですね。社長と一緒に証券会社や投資家のところへ行くのですけれど、社長が説明している内容がほとんど理解できないんですよ。一年ほどいて、これは無理だと思い、かたちとしては逃げ出したという感じですね。
大株主が連れてきた社長
次はサービス会社です。破綻した会社の債権を安く買い取る仕事ですね。1000万円の債権を1円で買い取って、債務者と交渉して100万円でも回収できればそのぶんが利益になる。そういうビジネスです。その会社の株主から「上場したい」という話をいただきまして、上場までに社長を代える必要がある、場合によっては私が社長を、という条件で企画の部長として入りました。
ところが、私に話をくれた株主よりも大きな株主がいましてね。その方が別の社長を連れてきたんです。当然その社長からすれば私は煙たい存在ですから、今で言えばパワハラに近いこともされました。かなりやり合いましたけれど、大株主がバックにいますから勝ち目はないと思って退職しています。
リーマンショックで売上ゼロ
腰掛けのつもりで入ったのが、大手の生命保険会社です。銀行の本部に対する法人営業でした。銀行は生命保険を売りますから、どう扱ってもらうか、新商品をどう導入するかを交渉する仕事ですね。銀行にいた人間ですからちょうどいいだろうと思いました。
入ったのが2008年です。大手外資系損害保険グループの子会社でしたから、入った途端にリーマンショックが来まして。いろいろな風説が流れて、銀行がその会社の保険を売らなくなるわけです。私のいた部隊の売上はほぼゼロになりました。一度閉じた窓口をこじ開ける仕事はとても難しい。ただ、難しいからこそおもしろいんですよね。外資系で給料もそこそこ高かったですし、結局6〜7年やりました。実績を評価されてアメリカの表彰式に行かせてもらうような、いいこともありましたね。
北海道の建具屋へ
働く場所はどこでもいい
前半は西日本、後半は東日本の銀行を担当していたので、日本中を飛び回っていました。ピーク時は年間100回ほど飛行機に乗っていましたね。毎週のように西日本へ行って、新幹線で移動して、金曜に飛行機で千葉の自宅へ帰る。そんな生活です。
働く場所は西日本でも東日本でもどこでもいい。そうお願いしていたところ、北海道に後継者のいない会社があるという話をいただきました。恵庭という町で、札幌まで30分。空港も近くて千葉に戻るにも便利ですから、「ぜひここに決めよう」と思ったんです。
器ではないと思っていた
正直なところ、私はナンバー1やトップの器ではないと思っていたんです。ナンバー2くらいの立場を希望していました。ところが、実際に提示されたポストは役員ではなく、まさかの「社長職」でした。面接を受けて、先代の社長にも気に入っていただいて入社が決まりました。
入社半年で代表権を持った
入社は2018年11月です。半年ほどで「代表権を持った専務にならないか」と言われまして、社長と私の二人が代表権を持つかたちになりました。そして2020年12月に社長が代表権を外し、私が単独の代表になりました。一般的な言い方をすれば、そこで社長になったということですね。
会社自体は先代が27歳のときに個人で創業して、一年後に法人化した会社です。今年でちょうど60年ほどになります。先代はいま会長で、もともと職人ですから、職人の会社なんですよね。ちなみに私は入社してから中小企業診断士の勉強を始めて、60歳になった年に資格を取り終えました。
私は神輿を担ぐ側の人間
前に出るタイプではない
トップの器ではないと言いましたけれど、これは本当にそうなんですよ。「俺についてこい」と引っ張っていくタイプではまったくないです。一番得意なのは、お神輿になるような人がいて、その人を表面に立たせて、私は裏や影から「やりましょう」と動かしていくやり方なんです。社長になってからも、そこは変わっていません。自分が前に出るよりも、できるだけ社員を引き立てたい。そのつもりでやっています。
給料は経営歴で一番安い
業界や会社の規模からすれば、私はたくさん給料をもらっているほうです。ただ、これまでの経営歴のなかでは実は一番安いんですよ。それでも、こんなに楽しい仕事をやっているのだから十分だという気持ちですね。
楽しいと感じるのは、やっぱり自分で方向性を決められるからです。ナンバー2以下だと、この会社はこちらに行くべきだと思っても、トップがどう考えているかを常に気にしなければならない。それがいまはないんです。もちろん、本当に正しいのかという怖さは常にありますけれど。
独断で決めない仕組み
だからこそ、社長になってから、それまでなかった会議体をいくつか作りました。役員と各部門のトップが週に一度集まる場です。基本的に独断では決めないようにしています。とはいえ、あまり反対されないんですよね。反対されないと、これが正しいのかどうかもわからない。
先代が創業社長で業界歴も長かったものですから、「社長が言うことには基本的に従う」という土壌が、残念ながらまだ残っているんです。方向性を決めるまでには、いろいろな人に相談もしますし、専門家の先生を呼んだり、機械を買うときに補助金を使えないか聞いてみたりもします。もっと社内から意見が出てくるようになるといいなと思っています。
銀行の担当者との付き合い方については、元銀行員ですから多分うまくやれているほうだと思います。診断士の資格を取ったこともあって、事業承継やM&Aといったテーマにも自分で手をつけられています。
減り続ける業界で生き残る
20数年で10分の1
この会社に入ってから知ったのですけれど、北海道の建具会社は20数年ほどで10分の1くらいまで減っているんですよ。住宅の着工件数自体も半分ほどになっています。減っている理由は、既製品メーカーが窓や扉を非常に安く作っていて、それを使う工務店さんが増えているからですね。
ライバルが減るという裏返し
しかし、裏を返すとこうも言えるんです。既製品の建具を使い続けると、工務店さんの独自性が出せない。本当の意味で注文住宅をやっている会社さんは、自社で建具を作るか、我々のようなところに「こういう建具を作ってくれ」と依頼するかのどちらかになります。そしてその依頼先である建具屋がどんどん減っている。つまり、ライバルが減っているということでもあるんですよね。
工務店と同業者へのチラシ
そこでここ数年、注文住宅を手がける工務店さん向けに「お宅のお付き合いしている建具屋さんもどうせなくなるんだから、うちと取引しませんか」という趣旨のチラシを送り続けています。同業者に対しては、補助金を使って機械化を進めていることを伝えて、共同作業をしませんかと呼びかけている。これが即座に反響がありましてね。「3〜4年前にチラシをもらったんだけど」と親父さんが訪ねてくることもあります。おかげでお客さまはそこそこ確保できていますし、増やせてもいます。
改善、機械化、そして新商品
今期の方針は改善活動
弊社は5月決算で、6月に「今期はこういう方針でいこう」と発表するセレモニー的な場があります。近年掲げているのが改善活動です。今日一生懸命に改善を考えて動けば、明日からでも役に立つものができる。そういう考え方ですね。補助金を使った機械化もそうですし、大手自動車会社の改善方式を取り入れたくて、大手自動車会社のOBの方に2〜3か月に一度来ていただいて指導を受けています。
社員のアイデアを買い取る
短期の施策もそろそろ限界ですから、長期的には新商品の開発しかありません。2つの道筋で組み立てようとしていて、ひとつはどこの会社もやっているように、新商品開発チームを作ってそこで進めるやり方です。
もうひとつが、社員自身のアイデアを商品にする仕組みですね。会社と社員のあいだで業務委託契約書を結んで、新商品の開発業務を社員に委託します。アイデアがあるなら会社の機械を使ってもいい、余った材料を使ってもいい、業務時間外に開発してもいい。商品になりそうだと判断できたら、その製造権と販売権を会社が買い取ります。
なかなか活性化しないものですから、いまはINPITという特許庁の公的機関にお願いをして、一年半ほどかけて支援を受けているところです。毎月のように東京や札幌から専門家に来ていただいています。
開発の順位は私が付ける
この取り組みには、社長である私のポケットマネーで順位を付けています。地元紙の新聞会社さんにも毎年来ていただいて、記事にしてもらうようにしていますね。
ここまでやるのには理由があります。社員はものづくりが好きで入ってきているのに、機械化を進めたために1から10まで自分で作らなくなってしまった。ものづくりの本当の醍醐味を感じにくくなっているんです。それに「岡田建具で建具を作っていました」と言っても、他の会社に行けば何もできない、という状態になりかねないと感じたんです。だからこそ、会社に長くいてもらうことがすごく大事なんですよね。そのためには休みや給与だけでなく、ものづくりの喜びを感じられる制度があるべきだと考えました。
根性は、楽をするために使う
楽しくやるが経営理念
今年の経営方針発表会で「根性」という言葉を使いました。いまどきの言葉ではないのは承知のうえで、わざと使ったんです。私は、「何に根性を使うべきか」という話をしたいのです。苦しいことをただ我慢するとか、辛い仕事を根性論でやり抜くとか、そういうことにエネルギーを使うのはもうやめてくれ、と伝えています。辛い仕事なら楽しくするために、苦しい仕事なら仕組みで楽にするために、そこにこそ根性を使おうよという話です。もちろん、サボるという意味では決してありません。かっこつけすぎかもしれませんけれど、とにかく楽しくやろう、楽になろう。ここ2〜3年はずっと言い続けています。誤解されやすいのですけれど、経営理念の中心にあるのは「楽しくやる」ということなんですよね。どうすれば楽しく仕事をしてもらえるか、楽しくできるか。それを考えていくべきだと思っています。
世界で活躍するようなトップアスリートでさえ、練習を苦しそうにやっているようには見えないでしょう。やっぱりそういうことなんじゃないでしょうか。何事も楽しくやれるようにするにはどうしたらいいかと考えたほうが、前向きに取り組めると思うんですよね。
失敗ではなく通過点
もうひとつ、若い方に伝えたいのが諦めないことです。ごまかしに聞こえるかもしれませんけれど、私は「一度も失敗したことがない」と言っているんですよ。成功するまでやるからです。やってみてダメだと思ったらやめます。ただ、それは失敗ではない。「その方向はうまくいかなかったかもしれないけれど、そちらはやめて他の方向に行けばいいとわかっただけでもいい」。そう考えればいいでしょう、という話をときどきしています。
一緒に考える人を探しています
一番の課題は採用
いま一番困っているのは採用です。私自身、そろそろ辞めるべき時期に来ていると思っていますし、事業承継も進めなければいけません。建具のことがわかる人は社内にいますから、そこは問題ないんです。足りないのは、ここまでお話ししてきたようなことを考えて、実行する人なんです。
20代なら経験は問わない
私たちが「企画」と呼んでいる仕事の経験者を採ろうとすると、それなりの年齢の方になりますから、少なくとも1000万円ほどの年収を用意しないと難しい。逆に「1000万円もいりません」という方は、失礼ながら信用しづらいところがあります。
ですから、いま一生懸命に募集しているのは20代で頭のいい方です。なかなか採れないのですけれど。経験の有無は問いません。ただ30歳前後の方には、できたら簿記の資格を持っていてほしいと思っています。20代前半なら入ってから勉強すればなんとかなりますけれど、30近くになると財務の素養なしに経営は厳しいですから。経営や企画をやりたいというのであれば、簿記の勉強くらいしておくのが当然ではないでしょうか。
まず話だけでも聞いてほしい
募集しているのは企画の部署です。学生さんにも見ていただけると思いますし、最初から経営に携われるという意味では、そういう希望のある若い方にはおもしろい仕事だと思いますよ。ただ、自信がないという方も多いようですね。
ですから、まずは気軽に一度、社長と話してみてください。採用活動という枠は使いますけれど、「どうしても入ってくれ」という話ではありません。私自身がいろいろな転職をしてきましたから、キャリア形成の参考にするというだけでもかまわないんです。話を聞いたうえで、応募したいと思うなら応募してくれればいい。実際、話をしたあとに応募まで進まない方も多いのですけれど、それでもいいと思っています。説明した仕事をおもしろいと思えないのであれば、無理に来ていただいてもしかたないですからね。
編集後記
「一度も失敗したことがない」という言葉が、取材のあともずっと頭に残っています。学生起業をかじっている身としては、うまくいかなかった企画をつい失敗として数えてしまいがちでした。でも小泉さんは、成功するまでやるのだから失敗にはならない、その方向が違うとわかっただけでも収穫だと言い切ります。銀行で20年、その後は転職を重ねて、50歳を過ぎて北海道の建具会社へ。決して平坦ではない道のりを、まったく悲観的に語らないのが印象的でした。楽しくやる、諦めない。この二つを本気で経営の中心に置く方のもとで、20代から経営に関われる環境はかなり貴重だと感じています。