インタビュー

「可能性しかない」――配膳から始まり、フランスでKura Master(クラマスター)を生んだ道のり

Kura Master 運営委員会代表 宮川圭一郎
PROFILE
Kura Master 運営委員会代表
宮川 圭一郎

学生時代、自分で生きる道を選んだ

学歴は高校まで

実はこのインタヴューを読んで頂く読者の皆様には申し訳ないのですが、実は私は高校までしか出ていないんですよ。実際、大学には合格したのですが、結局自分では大学に行かない人生になってしまいました。当時、ホテル業界に入りたいと思っておりまして、配膳という仕事に飛び込んでいったのでした。

家族と離れて生きてきた

人生というものは、両親との関係があってこそ形づくられていくものだと思います。けれども私は、中学生を過ぎたころから家族と離れ、一人で暮らしてきました。自分の力で生きていくことを自ら選び、その選択に責任を持って歩んできた人間です。高校時代には、大学生が暮らす寮に一緒に住まわせてもらいました。人との関係を一つひとつ築きながら、生活してきました。ここから人生の勉強が始まりました。

朝2時からの新聞配達

朝2時から朝刊、午後に夕刊の配達、また、集金の仕事もしましたね。雨の日も台風の日もです。年中休まず働いていました。その頃は、自分が休めば、その分を誰かが代わりに配達しなければならないから、病気にもなれませんし、つらくても仕事に出るのが当たり前になっていきました。今でも時々あのころを振り返ります。雨の日も風の日も外を走り続けていた自分を思うと、今こうして雨をしのげる場所で仕事ができることを、心からありがたいと感じています。

ホテル業界からフランスへ大阪のホテルで修行

元々関西育ちで、大阪の日航ホテルを目にする機会がよくありました。そこで、「ここで仕事をしてみたい」と思ったのが、ホテルの宴会配膳の仕事を始めるきっかけでした。運良くそこに数年働けまして、ホテルニューオータニ大阪がオープンする時にも、オープニングメンバーの一人として働きました。ホテルでは、立ち居振る舞いや人との話し方など身だしなみを一通り学ばせて頂きましたね。

フランス行きを決めた

ホテルで1年ほど働いたころ、社員にならないかと声をかけてもらいましたが、そのとき「すいません、フランスに行くんです」と答えました。自分の中では、すでに次の道が決まっていたんです。当時、サントリーに海外レストラン事業部という部署があり、フランスへ行くことに決めたのでした。

バブル崩壊のなかで

1990年、今から36年前にフランスに渡り、1年半後に支配人に抜擢されました。鉄板焼き40席、和食30席、寿司場10席の日本食レストラン。当時は日本人客が減ってきたバブル崩壊時期でした。これまでと同じやり方では通用しない。では、どうすればお客さまに来てもらえるのか。また、店を選んでもらえるのか。そのことばかり考えていました。

知恵で満席をつくる

ある日、ホテルリッツの前を通った時に、日本人団体客がバスから降りてくる光景をみました。その瞬間、「これや」と思ったんです。レストランがシャンゼリゼにあったので、「レストランでの食事 X シャンゼリゼぶらぶら企画」を、旅行会社を一社ずつお願いして廻りました。日本人客の夕食は早い時間に食事をされますが、フランス人は8時過ぎから。それまでの時間迄は店に空きができます。この時間に団体のお客さまに来てもらえば、一回転できる。そのアイデアで少しずつ日本人団体客が増えていったのです。また、全日営業も同時にスタート。目の前にある状況を見て、空いている時間をどう生かすかを考え動いた積み重ねで、売上UPに繋がっていきました。知恵を働かせ実践する事を学ぶ毎日でした。

過去最高の年に閉店、天国から地獄へ!

10年やってきて、1999年に過去最高の売上を記録しました。翌年に改装することも決まり、これからさらに店をよくしていこうとしていた矢先、稀代の会長が亡くなられ、12月にレストランが閉店しまいました。まさに、天国から地獄へ真っ逆様。

10年の放浪

そこから10年、放浪の旅が始まります。それが後年役に立っていくのですから人生は面白いものです。レストランが閉まる前、「僕と仕事をしないか、君ならできるよ」と声をかけてくれた人がいました。ファッション関係の会社で、社長と私の2人だけでした。

別の業界で学んだこと

レストラン業界とは全く関係ないファッションの世界で営業という仕事。それは「狩り」そのものものでした。同じ商品を見せても、社長が売るのと私が売るのとでは、結果が全然違う。なぜか社長なら売れ、私では売れない。商品の見せ方以上に、人と人の見えない絆を作ることだったのですが、中々気づきませんでした。また、海外との取引や貿易の基礎も仕事を通して学びましたね。振り返ってみると、この時に身につけた営業と海外貿易の知識こそが、今の仕事に役立っています。

ソムリエから総支配人へ

2010年までの10年間のうち5年ほどは、平日はファッション関係の会社で働きながら、週末にレストランに立つという二重生活を続けていました。営業の世界では、どうしても社長にはかなわない。そう感じるようになり、自分が経験を積んできたレストランの世界に戻り、フレンチレストランで再スタートをしました。そこで、半年ほど働いて、新しく開業する日本のホテルのフレンチレストラン立ち上げ総支配人として、日本に一時帰国することになりました。その仕事が落ち着いて、再びフランスへ戻ってきたのは、その約一年半後になりました。

独立、そして仕事への向き合い方

2009年12月、会計士に聞きながら、自分一人で会社を立ち上げました。それまでさまざまな仕事を経験してきましたが、独立してからも、仕事に対する考え方そのものは変わりませんでした。

愚痴と改善は表裏一体

昔から、仕事の現場で愚痴を言う人をたくさん見てきました。でも私は、それを「愚痴」ではなく「改善」と捉えるようにしていました。愚痴も改善も、見えている問題は同じです。「ここがおかしい」「もっとこうなればいい」と感じている点では変わりません。ただ、そのあとに何をするかがまったく違います。不満を口にして終わるのか。それとも、「では、どうすればよくなるのか」と考えて行動する。私は、後者でありたいと思い、改善実行してきました。私たちの仕事というのは、社長が目指していることを理解し、それを早期実現していくことだと今まで思ってやってきました。今度はそれを自分の会社で改善実行することになったのです。それには、まず地域一番店になることでした。その為に、今、何が必要か?また、何を改善すれば、そこに一歩近づけるのかを一つずつ自問しながら実行していきました。

Kura Master誕生の道のり

日本酒の限界を感じて

2010年に会社を立ち上げてから、5年ほどたった頃。日本食レストランで日本酒を提供するだけでは、いずれ販売の限界が来ると感じるようになっていました。日本酒を本当に世界へ広げていくのならば、日本食の中だけで考えていてはいけない。「フランス料理にとって、何をすれば日本酒が役に立つのか」という問いに向き合っていきました。日本酒を日本人や日本食のためのお酒としてだけではなく、もっと広い世界の中でどう位置づけるのかを考えるようになっていきました。

断られた提案、二度目の挫折

日本酒をもっと多くの人に飲んでもらうために、日本ではなくフランスのパリで開催したいと思っていた時に、ちょうど別のワインコンクールを運営している方が協力してくれることになり、日本にお連れしました。2015年の年末にかけて、広島と東京を回り、開催に向けた準備を進めていきました。ほぼ全てを形にしてフランスへ戻って、「これでできる」そう思っていた矢先です。翌年の1月、その方から突然、「あなたとはやりたくない」と言われました。実現するところまで来ていたはずの計画が完全に頓挫です。目の前が真っ白になった二度目の挫折でした。

自分でやると決めた

その後、ある蔵元さんに「宮川さん、人のふんどしでやろうとしているからダメなのですよ」と、あっさり言われました。私は思わず、「お金もないし、ノウハウも人もいない。そんなの無理ですわ」と答えました。ところが数か月後、また、別の蔵元さんから、「そこまで気持ちがあるなら、自分でやるべきですよ」と言われました。同じようなことを、結局3度も言われた、その時に初めて気がついたんです。これは「理屈を捨てて兎に角やれっ」ていう神の啓示かもしれない(と勝手に思ったのです)。そう腹を決めたら、このKura Masterが半年ちょっとで立ち上がったのでした。

人生は可能性しかない

自分をゼロにする

人生には、可能性しかないと思っています。そのためには、自分を一度「ゼロ」に戻すことです。これまでの経験や肩書き、思い込みの全てを捨てる。これはマイナスの思考(=執着)を完全に捨て去るということです。後は今あるもの,やれる事から、可能性を探って実践する。ただそれだけ。それこそが人生を生きる智慧だったのです。心を軽くし元気に保つ。「自分なら必ず成し遂げられる」と自分を信じるのです。無心で素直な赤子のように、ただ挑戦するのです。

生きているだけで感謝

五体満足で自分が生きている。ただそれだけで感謝するようにしています。考えてみれば、自分だけの力でつくったものなんてありませんよね。生かしてもらい、食べさせてもらい、両親がいる。今着ている服だって、誰かがつくってくれたものです。自分のまわりにあるものは、決して当たり前ではない。だから私は、毎朝、自分の身体にも感謝するようにしています。「今日もありがとう」そんな気持ちで、自分を支えてくれている一つひとつの存在に感謝する。生きているということ自体が、すでにありがたいことなのです。

人を幸せにすること

自分の信念は、人を幸せにするということです。自分だけ儲けたいと思って引っ張っれば、人は離れ、人を助けていけば、それが自分に返ってくる。自分の会社を持ってはじめて、人を育て、人をまとめていく、経営とは何かがおぼろげにやっとわかってきました。

Kura Masterの今とこれから

広がる部門

Kura Masterの日本酒コンクールは、2017年に始まりました。フランスの方々に日本酒を実際に飲んでもらい、その魅力を知ってもらう機会をつくることでき、2021年から焼酎コンクールも始めました。海外では、いまだに日本酒を蒸留酒だと思っている方も少なくありません。日本には様々なお酒があり、それぞれに異なる文化や造り方、魅力があることを知ってもらいたいと考えるようになり、梅酒・リキュールのコンクールを始め、さらに日本ワインへと対象を広げてきました。日本酒から始まったKura Masterは、少しずつその領域を広げ、今では日本のお酒を総合的に評価し、世界へ伝えていくコンクールへと成長しています。

フランス人自身の気づき

ソムリエという仕事は、ワインだけを売る仕事ではありません。世界にあるさまざまな飲み物を知り、その魅力をお客さまに伝える仕事だと思っています。Kura Masterの活動を続けるなかで、フランス人の審査員や関係者の方々が、「日本のフレンチレストランでも、日本酒を使って良いのだよ」「日本のワインをもっとレストランに置くべきだ」そのように、日本のお酒について語ってくれるのが本当に嬉しいのです。

Kura Masterを続けてきた意味

そして彼らが日本を訪れたとき、意外に感じることがあると言います。それは、日本人自身が、自分たちの国で生まれた商品や文化の価値を、空気の様に感じていると見えるそうです。フランス人は、フランスの自国のワインや食文化を自分たちのアイデンティティとして大切にしています。だからこそ彼らは、日本人に対しても、「自分たちの国にあるものを、もっと誇りを持って大切にしたほうがいい」と言ってくれるようになりました。日本のものを海外に伝えようとして始めた活動が、いつの間にか、日本人自身が自分たちの価値に気づくきっかけにもなっている。そこに、Kura Masterを続けてきた意味の一つがあるのだと思っています。

日本を元気にする活動

私たちはフランスでコンクールをやっているだけじゃなくて、日本を元気にする活動もしています。フランスの方を日本にお連れして、Kura Masterと日本の自治体や酒造組合様とも協力して、日本研修旅行を企画運営しているんです。

15年前はほぼゼロだった

フランス料理の世界では、日本酒や本格焼酎はそれほど入っていません。それでも三ツ星レストランの20%、二ツ星の20%、パリの一つ星では33%に、日本酒が入るようになってきました。15年前はほぼゼロだったんです。これからが楽しみです。

これからの10年

ソムリエは世界に8万から10万人います。その人たちが今、日本酒を勉強しなければいけないようになってきています。これからの10年で日本酒がどう広がっていくか、私と一緒に見続けてほしいと思っています。

編集後記

宮川さんのお話でいちばん印象に残ったのは、「愚痴と改善は表裏一体」という言葉です。不足を嘆くのではなく、同じ不足を改善のきっかけとして捉える。配膳の仕事から支配人、そして独立へとキャリアを切り拓いてこられた道のりに、行動の積み重ねが人生を作るのだと感じました。学生起業をしている身として、「まっすぐ進む素直さ」という考え方は、すぐにでも実践したいと思います。フランスで日本酒の価値を築いてきたKura Masterのこれからの10年も、楽しみに見続けたいです。