演劇の裏方が好きだった学生時代
大学時代に一番打ち込んでいたのは演劇です。
台本を書いたり、出演したり、小道具をつくったりと、いろいろな役割をやらせてもらいました。人から褒められたのは台本づくりでしたが、自分が一番楽しかったのは小道具づくりです。
当時、役者から「白とスカイブルーのノートパソコン(iBook)を小道具で使いたい」という要望があったのですが、本物を買うお金はありませんでした。そこで、発泡スチロールとスプレー缶を使って似たものを再現しました。ほかにも、秋葉原で電飾部品を買い集めて「光るヘルメット」をつくったりしてました。昔から、手を動かして物をつくるのが本当に好きでした。
新卒で入った映像制作会社を、10ヶ月で離れた
大学卒業後、面白いものを作りたいという思いから、映像制作会社に新卒で入社しました。裏方としてさまざまなコンテンツ制作に関わりましたが、実際の仕事内容は想像していたものとは違い、悩む時期もありました。
ちょうどそのころ、お笑いの道に進んだ大学の先輩の舞台をよく観に行っていました。それを観にいくうちにいつしか「自分でもやってみたい」という気持ちが強くなり、入社から10ヶ月で会社を辞めて、お笑いの道に進みます。養成所も含めて4年ほど活動しましたが、コンビの解散を機に引退。就職活動を始めます。
その後、営業職などに就きますがうまくいかず、振り返ると、まともな職歴と呼べるのは最初の映像制作会社でのアシスタントディレクター(AD)としての10ヶ月だけでした。このままではいけないと思い、パソコンスキルを身につけるために職業訓練校に通います。そこで3ヶ月ほどかけて、Excel(エクセル)とWord(ワード)を習得しました。
そして28歳のときに、テレビ番組の制作会社にADとして就職します。ここから今につながるキャリアが本格的にスタートしました。
リストラをきっかけに、東京を離れる決断をした
テレビ番組制作会社に入ってから独立するまで12年ほど、会社員として映像制作の仕事に携わってきました。最初はスポーツ系の番組づくりが中心でしたが、途中から企業向けの動画制作にシフトし、最終的には企業マーケティング領域の動画制作に完全へと軸足を移していきます。
前職は東京の動画スタートアップ企業で、企業とクリエイターをつなぐ動画制作プラットフォーム「VideoWorks」を運営していました。私は制作部に所属し、動画プロデュースの傍らで、新規クリエイターの開拓や面談、アサインを担当。このときのつながりが、今も大きな財産になっています。
2022年10月からは栃木県に移住し、フルリモートで働き始めます。しかし、会社の業績悪化に伴う体制見直しにより、遠回しに退職を勧められる形になってしまいました。
もともと会社員を辞めるつもりはありませんでした。しかし当時はコロナ禍が落ち着きはじめ、多くの会社が週3日ほどの出社スタイルに戻りつつある時期。栃木に住みながらフルリモートで働ける東京の会社を再度探すのは困難でした。そこで栃木県内での転職を模索したものの、自身の経験を生かせる仕事は求人サイトのどこを見ても見つかりませんでした。
創業サロンで出会ったおじいちゃんが、独立のきっかけになった
そんなとき、日光市に「創業サロン」があることを知り、話を聞きに行くことにしました。これが独立する一番最初のきっかけです。
雨の日、お店が並ぶ通りにぽつんと建つ古い建物の中を覗くと、デスクに座った70歳くらいのおじいちゃんが居眠りしていました。看板には「お気軽にお入りください」とありましたが、とても気軽に入れる雰囲気ではなく、一度は通り過ぎてしまったほどです。それでも雨が強くなってきたため意を決してガラス戸を開けると、目を覚ましたその方と15分ほど立ち話が始まりました。話をしていくと、このおじいちゃんこそが創業サロンの管理人さんでした。
その後、中に通していただき、中小企業診断士の先生を紹介してもらいました。そこから本格的に起業を志すことになります。もともと社長になろうと思ったことは一度もありませんでしたが、会社員時代に残っていた有給30日をすべて使って起業準備を進め、2023年6月5日、栃木県鹿沼市にある古民家シェアオフィスで合同会社元就を立ち上げました。
創業から1年が経った頃、シェアオフィスの閉鎖が決まり、年度末までの退去を余儀なくされます。新たな場所を探す中で見つけたのが、今拠点にしている日光市のキャンプ場にあるシェアオフィスです。日光は弊社にとって生みの親のような存在。創業サロンの管理人さんがちょうどこの頃に亡くなったことも、日光に拠点を移す気持ちを後押ししてくれました。全国的にも知名度が高い「日光」という地名の発信力も決め手となり、2025年2月からはこのキャンプ場のシェアオフィスを本社として活動しています。
「わかりやすく、おもしろく」がすべての土台にある
事業内容は、企業向けの動画制作と企画・プロデュースです。動画のノウハウ自体は15、6年の経験がありますが、いまはあえて企業向けの仕事だけに絞っています。
ビジネス上のコミュニケーション施策でもっとも大事なことは「企業側が伝えたいことをいかにわかりやすい表現に変換し、相手に正しく受け取ってもらうか?」だと思っています。まずは、わかりにくいものを、わかりやすくする。そして、わかりやすくなったものは、興味を持ってもらえるようおもしろくする、というのが、会社としての考え方です。本質的な価値はそこにあり、動画はあくまでそれを表現するための手段であると考えています。
商談から納品まで、すべて自分が担当する
弊社の強みは、最初の商談から最終的な納品・請求までを、すべて私が担当することです。多くの会社では商談を担当する営業やプランナーと、制作を担当するプロデューサーが分かれており、その間での情報の抜け漏れや伝達ミスがしばしばクレームやトラブルの原因になります。
一方弊社の場合は、すべてを自分が担当するため、制作の途中で方向性が急に変わっても、それまでの経緯を踏まえて適切な対応策をご提案できます。責任の逃げ場がなくなる意味では大変ですが、お客様とのコミュニケーションのズレを最小限に抑えられる点が、一人会社ならではの強みだと考えています。
実際の撮影や編集といった手を動かす部分はすべて外注しており、前職でクリエイターのマッチングに携わっていたころの繋がりを含め、およそ400人のクリエイターネットワークの中から案件に合う方を都度アサインしています。
足の肉離れが、経営の土台を見直すきっかけになった
創業1年目は黒字で終えられたものの、2年目に入ってすぐ、全治5ヶ月の重度な肉離れを負ってしまいます。1ヶ月ほどはまともに動けず、ご相談をいただいても対応できない歯がゆい状態が続きました。
このとき初めて、自分の体が資本である「ひとり会社」の弱さを痛感し、集客やマーケティング、財務、経理など経営の基礎を学び直す必要性を強く感じました。松葉杖をつきながら情報収集を続ける中で出会ったビジネス系YouTube動画をきっかけに、マーケティングコミュニティの門を叩きます。
そこにはヘッドスパや講座ビジネス、物販など、これまで関わったことのない業種の人たちが多く集まっていました。彼らのマーケティングや経営手法を徹底的に学んだ結果、3期目には売上が前期(2期目)比で約7倍に拡大。お客様の数が劇的に増えたわけではありませんが、企画力が磨かれて提案の質が上がったこと、栃木県内のネットワークを駆使した動画プロデュース体制が確立したことが大きな要因です。こうした一連の取り組みは、単に業績を伸ばしただけでなく、プレスリリースの発信や登壇活動といった「将来につながる無形資産」の蓄積という大きな財産をもたらしてくれました。
75歳まで、栃木県への恩返しを続けたい
鳥取で生まれ、幼少期に島根、岡山へと居を移してきた私には、心から「ここが故郷だ」と呼べる場所がありません。創業時、自らのルーツを見つめ直そうと鳥取を訪れたものの、記憶の中の景色とはすっかり様変わりしており、どこか淋しさを覚えたのを今でも思い出します。
だからこそ、いま暮らす栃木県は私にとって最も居心地がよく、深い思い入れのある土地です。確固たる故郷を持たない自分だからこそ、この地を故郷にする覚悟をもって「栃木に貢献すること」を人生の大きな目標に掲げました。合同会社元就は75歳まで続ける決意であり、それまでにこの地域にとって真に意味のある存在になりたいと考えています。
貢献の形は、動画だけにこだわりません。講演やセミナー登壇といった場を通じても、栃木県の力になりたいという思いがあります。ありがたいことに、日光市での移住セミナーなど登壇のご依頼も増えており、地域に必要とされる喜びと手応えを感じる日々です。
怪我をきっかけに出会った異業種の経営者たちから得た知見や、動画事業で培ったノウハウを活かし、今後は地域に還元できる新たな事業領域にも果敢に挑戦していきます。
編集後記
今回インタビューをさせていただき、演劇活動からお笑い芸人、そして企業動画のプロデューサーへとキャリアを重ねてきた毛利さんのお話に引き込まれました。回り道に思える経験のひとつひとつが、今の「わかりやすく伝える」という強みにつながっていることが印象的でした。栃木県への思いを語る場面からは、地に足のついた経営者としての姿勢が伝わってきました。貴重なお話をありがとうございました。