販売員から始まった、遠回りのキャリア
高校卒業後は「ABC-MART」で販売員
高校を卒業して、大学には進学しませんでした。まず選んだのは「ABC-MART」での販売の仕事です。3年ほど働いていました。実は浪人もしていたので、周りの同級生が大学4年生を終えるくらいのタイミングで、22歳のときに販売の仕事を辞めてアメリカへの留学を決めました。
大学の勉強にピンとこなかった
留学して1年目は語学学校で英語を学んでいました。この生活がとても楽しくて、アメリカでの暮らしを通して世界が広がっていく感覚がありました。うちの家庭は高学歴のサラリーマン家系というか、母も祖父もそうだったので、本当は大学に行ってほしいという空気もあったと思います。それもあって、語学学校が終わったタイミングで現地の大学を受けてみました。アメリカの大学は間口が広くて、語学学校の成績があればそれなりに入学できるんです。
ただ、約1年通ったころに気づいたのは、私は小さいころから学校の勉強があまり好きではなかったということです。将来役立つのかもしれないですが、実際に使えるものでないとなかなか身が入らない性格でした。当時は経営やマーケティングの授業を取っていましたが、いまいちピンとこなかったんです。語学はすぐに覚えて使える環境にいたので、楽しくて身につくのも周りより早かったと思います。
大学時代に惹かれた南米の文化と言語
大学時代を含めた2年間は、南米出身の人たちと一緒にいることが多くありました。もともとサッカーをしていたこともあって、ブラジル人やベネズエラ人など、スペイン語やポルトガル語を話す人たちが周りに多かったんです。ずっと一緒にいると、自然とその人たちが使う言語がしみ込んでくるのが面白くて。日本人が持っていない感覚や文化に惹かれていきました。
アメリカにいるあいだに旅行で南米へ遊びに行っていたのですが、次第に「大学で勉強しているくらいなら、もうひとつ言語を話せるようになりたい」と思うようになりました。アメリカにいても日本人は周りに結構いますし、日本人でも英語を話せる人は多い。だから、日本人が全くいないような環境に身を置きたかったんです。
大学は中退し、コロンビアへ
そういう経緯があって、大学は中退し、留学先をコロンビアに変えました。コロンビアには約1年いました。コーヒーの国なので、コーヒー農園に足を運んで、現地で豆から淹れるとめちゃくちゃ安く楽しめるのも面白いなと思っていました。
ただ、留学期間を延長するとか、現地に残って仕事をするという発想には至らず、留学期間の満期を迎えてそのまま日本に帰国しました。当時はすでに25歳になっていて、帰って何をするかは何も決まっていませんでした。とりあえず帰国した、という感じです。
不動産会社への入社、そして人材紹介事業への転籍
帰国後はフリーターの期間を挟みつつ、初めて大手の求人媒体に登録しました。すると、その登録情報をたどって電話をかけてきてくれたエージェントの紹介で、ある会社にご縁をいただいて入社しました。それが社会人1年目、初めての正社員生活の始まりです。入社したのは不動産会社でした。
その会社は創業4期目か5期目くらいで、かなり伸びている会社でした。最初は不動産の営業として入りましたが、不動産管理とは関係なく新規事業をいくつも立ち上げている会社で、そのなかで人材紹介サービスが立ち上がりはじめていました。集客がかなりできていて、売上が立ってきそうだということで法人化することになったんです。
人材紹介会社として法人化するタイミングで、私がやらせてもらっていた新規事業はあまりうまくいっておらず、不動産の方の業績もうまく回らなくなっていました。一方で新規事業として立ち上がった人材紹介の方はうまくいっていたので、私も手伝わせてもらっているうちに「これは面白そうだ」と感じるようになりました。加えて、いずれ起業したいという思いもあったので、会社を立ち上げるとどういうものかを、最初の創業メンバーとして携われる機会は魅力的でした。会社名は変わったので一見転職なのですが、株主は同じなので転籍というかたちでその事業に加わらせてもらいました。
大阪に一人で乗り込んだ2年目
不動産会社に入社して2年目のことです。1年目の東京の立ち上げが成功したため、2年目は大阪に出店することになりました。2018年、まだコロナの前です。当時の人材紹介はまだ対面が多かったこと、私自身起業したいという思いがあったこともあり、「一人で行ってきます」と手を挙げて大阪の立ち上げを担当しました。
それなりに手応えもつかめてきたのですが、会社を大きくしていくなかで「お前、いつまでいるんだよ」というような空気も出てきました。つまり、独立をうながされていたんです。大阪を一人で立ち上げて責任者のような立場になり、会社のナンバー2のような扱いにもなっていたので、いずれ下につくのは運営上難しいだろうという話でした。
ただ、「いつか」と言われても、それがいつなのかは分からない。私自身も、30歳手前くらいまでには起業したいという思いがなんとなくありました。そこで、大阪を立ち上げてちょうど1年のタイミングで「今期いっぱいで退職します」と伝えました。そして2020年7月に退職し、起業したという流れになります。
マイノリティでありたいという原点
起業への思いは高校時代から
そもそも起業したいという思いがいつから芽生えたかというと、高校生のころから常にマイノリティでいたいという感覚があったのでそのころからかなと感じます。大手のサラリーマンとして一生勤め上げたり、そこで成り上がっていったりするのは自分らしくない。ならば、自分で事業を起こすしかないんだろうと。
コロナ禍のスタートは「どん底から」
独立したタイミングは、まさにコロナ禍の真っただ中でした。心理的に「これはやばいな」とは思ったものの、コロナがあったせいで苦労したことは正直あまりありません。むしろ、創業したタイミングが世の中的などん底というか、これから日本や世界がどうなっていくのだろうという時期だったので、「どん底からのスタートだから、あとは上がっていくだけだ」と考えるようにしていたのを覚えています。
もともと人材紹介の事業をしたいという思いで独立しているので、どの業界であっても、コロナで採用できなくなり業績が悪くなる業界がある一方で、逆にコロナが来たことで盛り上がったり、人手が足りなくなったりする業界も絶対にあるだろうと考えていました。労働人口自体は変わらず、ただ需要のある場所が変わるだけだと思っていたので、そこまで悲観的には捉えていませんでした。
リード獲得までの苦労と、譲れないこだわり
差別化までに時間を要した
苦労してきたことはたくさんありますが、なかでも大きかったのは人材紹介事業そのものです。「自分だからこの事業が成り立つ」というこだわりを大切にしたい一方で、人材紹介会社は数多くあり、商品自体もビジネスモデルとしては参入障壁が低いんです。そのため、人材紹介会社では当然求職者の方々も取り合いになっているということです。
思いを形にして共感を生み、ビジネスモデルを確立して、転職相談に来てくださる求職者の方をしっかり獲得できるようになるまでには、すごく時間がかかりました。それが一番大変だったところだと思います。
日本の労働人口に賭けるビジョン
ミッションは「チャレンジすることの楽しさを伝える」
弊社ではミッションとして「チャレンジすることの楽しさを伝える」ことを掲げています。ビジョンとしては少し壮大な話になりますが、日本はどうしても寂しい話題が先行しがちだと感じています。GDPが下がっている、昔は勢いがあったのに今は弱くなっている、というような話です。
労働人口の多さは日本の強み
ただ、私自身が海外に行って感じたのは、日本はまだまだ強みを持っているということです。少子高齢化と言われますが、労働人口はかなり多い国だと思っています。日本の人口はいずれ1億人を下回ると予測されていますが、それでもなお、国内には多くの労働力が存在しています。 労働人口という強みを活かしていくことが、弊社の今後のビジョンだと考えています。
学生・第二新卒へのメッセージ
学生生活は二度と戻ってこない
学生生活を思いきり楽しんでほしいと思っています。学生生活は基本的にはもう二度と戻ってこないので、全力で楽しんでほしいんです。どうしても若いときは遠慮したり、億劫になったり、恥ずかしがったりする部分があるかもしれません。でも、あとから振り返ったときに「あのとき、あれをやっておけばよかった」と思うのはもったいないですよね。
やりたいことは今のうちに全部やる
「なんで、あのとき挑戦しなかったんだろう」とあとで思わないように、今のうちにやりたいことは全部やっておくということを伝えたいです。海外に行くことも含めて、行きたい場所ややりたいことがあるなら、迷わずやってみてほしいと思います。
編集後記
大学中退から海外留学、不動産会社での挑戦を経て起業に至るまで、飯田さんの選択の一つひとつに「マイノリティでありたい」という一貫した軸があることが印象的でした。コロナ禍のなかでも「どん底からのスタートだからこそ、あとは上がっていくだけ」と捉える発想の転換は、私自身の学生生活や将来の選択にも活かしていきたいと感じました。労働人口という切り口から日本の可能性を語る視点も、とても学びが多かったです。貴重なお話をありがとうございました。