ワーキングホリデービザから始まった、オーストラリアでの創業
1992年のオーストラリアは観光ブームで、日本から多くの観光客が訪れていました。しかし、日本語で書かれたパンフレットやポスターの類はなく、日本人観光客が困っているのを見て、コンピューターショップでMac Classcを購入し、DTPを始めました。
そうしたら、町の印刷屋さんから声がかかって、一緒に仕事しないかと誘われました。当時、日本人がたくさんオーストラリアに来ているのに、観光雑誌を出しているオーストラリアの会社が少なかったです。私がいたのは田舎で、そんなことをやっている日本人は誰もいなかったですし、シドニーに日本人の印刷屋さんが一軒あって、そこがニュースペーパーを出しているぐらいでした。
一人で仕事を回してビザを取った
その町の印刷屋とタイアップして観光雑誌を作り始めました。それが私の初めての大きな成果物になります。今ではもすでにDTPという言葉もなくなってしまっていますが、当時は印刷業界を揺るがす大きなムーブメントで、その仕事をしているのは私一人だったので、街中のいろいろなお店から仕事を受注し、そこでビジネスビザを取得しました。これはビジネスになるなと初めて思ったきっかけです。
先に何かがあって事業を始めたわけではなく、足りないものをどう埋めるかということを、今も一貫して考えています。例えば今はインドのバンガロールにいますが、足りないものは何かということを常に探しています。すごい事業のノウハウがあったり、計算し尽くしてビジネスモデルを作ったりしているわけではなく、ふとしたきっかけで始めて、それをどう大きくしていくかを後から考えていく。それが私のスタイルになります。
カナダで生まれた「世界初」のDTP技術
事情があってオーストラリアを離れて、次はカナダに移りました。カナダでも同じようにコンピューターを使った印刷物を作ろうと思って、コンピューターグラフィックを始めました。
三か国語対応のイメージセッターで世界初になった
同じ時期、株式会社日本ソフトバンクが、コンピューター専門誌を発行しており、その時にコンピューターから直接印画紙や印刷用フィルムを出力する「イメージセッター」という機械を日本で初めて導入していました。友人がそこで働いていたので、私も一週間ほど修行させてもらって、コンピューターから印刷物を出力する方法を学びました。
カナダの知り合いの中国人事業家がそのイメージセッターを持っていて、中国語と英語を出力していました。そこに日本語も入れれば三か国語対応になり、世界初のイメージセッターになる。ぜひやってみましょうということになり、無事成功させることができました。
カナダで大きなニーズが出てきて、パソコンで作ったデータを日本語・英語・中国語の3ヶ国語で出力できるということで、大手のお客さまがついてきました。それから数年、カナダで広告業の仕事をずっとやっていました。
インターネットへの転換とホームページ事業
1998年になると競合も現れてきて、カナダの日系企業などの減少があり、事業が下火になってきました。地域にとらわれない新しいビジネスを考えなければならないと思い、インターネットに進出しました。
HTMLを独学してホームページを作り始めた
これまでは日系向けの電話帳や観光マガジンを自社出版していたので、次はインターネット上でのマガジンを世界に発信することを思いつきました。まだいろいろなソフトがまだない時代だったので、独学でHTMLでホームページを作り始めました。「ESCAPE」という観光マガジンを年2回発行していて、それをインターネット上で公開しました。そうしたら、日本のヤフーから、うちのサイトに載せたいという連絡が来て、カナダの観光情報のトップは当初ずっと弊社の「ESCAPE」でした。
ホームページ作りの受注が増えましたが、ほとんど手打ちで大変だったのと、専門知識がないとホームページが作れないことに疑問を抱き、自動でホームページを作るシステムの開発に取り組み始め、サーバー上で動作するCMSを開発しました。
英会話システムは見事に失敗した
自社のCMSを使い、オンライン英会話ができるんじゃないかと思い、2001年にオンライン英会話システムを開発し事業を始めました。しかしながら、当時はまだモデムがジーコージーコーと音を立てる時代で、途中で回線が途絶えてしまう(P to P技術を使ったのですが)、それに、インターネット上で語学を勉強するなんてできないと、あまり信用されず、結果として、ものの見事に失敗してしまいました。
その後もデジタルサイネージやインターネットパノラマなど、次々と新しいものを作りましたが、早過ぎて市場のニーズに合わず、うまくいきませんでした。
シンガポールでの海外進出コンサルとインドとの出会い
日本とカナダでのIT事業を一旦やめて、シンガポールに移り、事業コンサルを始めました。オーストラリアもカナダも、海外経験が長かったので、海外に進出してくる日系企業の立ち上げを、ベトナム、フィリピン、シンガポール、インドネシア、マレーシアなどで手伝っていました。
2017年、フィンテック企業の立ち上げで初めてインドへ
2017年に、お客さまがインドで事業を立ち上げたいということで、初めてインドに来ました。携帯電話上で給料の振込みなどができるフィンテック企業の立ち上げでした。その後も数社の日系企業のインドでの立ち上げを手伝ううちに、ある企業から人材事業をやりたいという話があり、インドから日本へ人材を送る仕事を始めたのが、人材業に関わった最初のきっかけです。
日本語ができても「ミスマッチ」が起きる理由
人材業の実態を知ったとき、これが今の事業の根幹になったのですが、多くの採用会社はすでにインドで日本語が話せる人材を送り出しています。でも、ミスマッチがとても多いんです。
「共生」は言葉だけでは実現しない
日本ではよく多文化共生と言われますが、全く知らない土地に行っていきなり共生するのは無理です。二十歳を過ぎて染みついた自分の習慣は、なかなか捨てられないので、日本語ができるからといって、日本に行って日本人と同じように生活できるとは限らないのです。私自身、いろいろな国を回って感じてきたことですが、その国に慣れるまでには最低でも2、3年はかかります。特に後進国から日本に行くと、先進国のマインドについていくのは非常に難しいんです。
それでも多くの採用会社や日本語学校は、日本語を教えて送り出してしまえば、あとは本人と日本の会社の問題だとしてしまっているのが現状です。それに気づいたので、少なくとも日本に行く前の半年ぐらいは、日本の文化や働き方を教えて、ある程度理解してから送り出すという選択をしないと、行った人も不幸になるし、受け入れた企業も不幸になると思と思いからこの学校を立ち上げました。
インドでは遅刻もゴミ捨ても「習慣」
例えば、インドにはほとんど時間を守るという概念がありません。学校にも平気で10分、20分遅れてきますし、弊社の社員も入社当初は平気で遅れてきていました。それが当たり前の習慣なので、それで終わってしまいます。日本に行けば責められますが、インドではそれが習慣化しているので責められない場合が多くあります。
ゴミも平気で道に捨てますし、いらなくなったものはポケットに入れる概念がなく、その場で捨ててしまいます。これは昔の人だけではなくて、今うちに来ている十九歳、二十歳の学生たちも同じです。日本に行ったからといって、それがすぐには直らないです。だからこそ、日本の文化やルール、マナーをきちんと教えないと、日本で働く人材にはなり得ないというのが私のポリシーで、今の学校をやっています。
浄と不浄の概念があり、ゴミ、つまり命がなく亡くなったもの、用済みのものは不浄なので、捨てることが昔からの習慣なのです。
N2レベルまで教える理由
介護士や自動車整備士など、技術を教える学校はあります。ただ、文化や習慣の違いまで教えているところは少ないです。弊社は大学四年生を主にリクルートして教育しています。インドでは四年生になるとインターンシップや就職活動があって学校外で学んでもよいので、我々のところにインターン生として来て、ほぼ一年間、日本語や日本の文化、日本での働き方を勉強してもらいます。
日本に行けるビザの目安はN3レベルと言われますが、弊社はそのひとつ上のN2レベルまで教えています。N4レベルでもよいという会社もありますが、実際に見ていると、会話が片言だと日本人とのコミュニケーションができず、ほとんどの場合トラブルになります。話ができない人と一緒に仕事をして、その都度教えなければならないとしたら、人口が減っているから人を採用しても、逆に二倍の労力がかかってしまいます。少なくとも普通に会話ができ、ビジネス用語がわかるレベルにしておかないと、企業側も困り、行った本人もコミュニケーションが取れずポジションが上がらず、日本に不満を抱いて帰ってきてしまう。双方にとって良くないことが起きてしまいます。長期的な視点を持ちながら、我々は教育をしています。
学生とともにインドの社会課題に取り組む
弊社にはたくさん学生が来ていて、長い子は1年ほど滞在しています。日本語を習う他に、我々は研究開発の事業もやっています。インドでは環境問題を多く抱えています。エンジニア達に、そういった問題を技術で解決するために、ゴミ処理機や3Dプリンターで作る安価な義手、農家が使える収穫予想アプリなどを作ったりしています。
弊社のエンジニアと、日本から来たインターンの学生に手伝ってもらって、そういった問題の解決に取り組んでいます。インド人向けのアカデミーではありますが、本当は日本人にもたくさんこちらに来てもらって、現場を見てもらい、日本に帰ってから何かに生かしてもらいたいという思いがあります。
3年、5年で目指す雇用創出
今後3年で言うと、今研究開発をしている事業を大きくして、インドでもう少し雇用を生みたいと思っています。インドの一番の問題は雇用の少なさで、若者の失業率は50%ぐらいです。今はAIの登場で、これからますます失業率が上がっていくと思われ、すごく懸念しています。雇用がちゃんと生まれないと、経済的にも落ち込みますし、格差も広がって、社会問題や環境問題もますます悪い方向に向かっていくと思います。
我々が一気に何千人と採用できるかはわかりませんが、そういう規模の工場を作りたいという思いがあって、そのためにまず学校運営をやっています。教育が一番大事だからです。今は日本に送っていますが、日本に行けない人たちが、インドで我々の思いと一緒に新しい事業を始められればいいなと思っています。教育は投資になっていますが、彼らが一人ひとり自立して、一人でも多く雇用を生めるような事業ができればというのが、我々の3年、5年、10年のビジョンです。
学生へ、悩む時間があるなら経験してほしい
弊社には日本からインターンシップに来る学生たちもいます。彼らの多くは将来にすごく悩んでいます。ただ、悩む時間があるなら、いろいろなことを体験したほうがいいと思います。若い時は失敗が許される時期なので、何にでもチャレンジして、たくさん失敗するべきだと思います。ビジョンを長く持ちすぎると、逆に視界が狭くなってしまうので、一旦捨てて、いろいろなことに挑戦してほしいと思います。自分に何ができるかは、年齢とともにどんどん狭まっていくものなので、そのときに初めて明確なビジョンが出てくると思いますし、そのビジョンも時代や環境の変化で変わっていくものだと思います。
私自身、最初にグラフィックデザインをやっていたときも、環境の変化でビジネスがうまくいかなくなりました。そのときに、すぐ次の新しいことを考える力がないと、波に押し流されてしまいます。事業は本当に変化し続けなければなりません。一貫して同じことができれば理想ですが、それができる事業者は少ないと思います。特にスタートアップの段階では、ぶれることもあると思いますが、信念だけは曲げないようにして、やり遂げること。登るときは直線ではなく、必ずうねりながらゆっくり登るものなので、ぶれてもいいんです。ただ、自分のゴールだけは忘れないようにすれば、必ずそこにたどり着けると思います。
編集後記
今回、石田さんのお話を伺って、「事業をやろう」と決めてから始めるのではなく、「足りないものを埋める」という感覚で走り続けてきた歩みに驚きました。印刷業からインターネット、そして人材・教育事業へと形を変えながらも、一貫して現場の課題に向き合ってきた姿勢が印象的です。自分が抱いていたイメージを見直すきっかけになりました。悩む時間があるなら経験しろ、という言葉を胸に、私自身も残りの学生生活でいろいろなことに挑戦していきたいと思います。