株式会社岩田写真で代表取締役をしている岩田幸久です。秋田を拠点に、こども写真館「スマイリー」やブライダル衣装ブランド「ブランシェリー」などを展開し、記念写真を通じて家族の「宝物」づくりをおこなっています。とはいえ、もともと写真館を継ぐ予定はまったくなくて、学生時代から夢中になっていたのは音楽と劇団の裏方仕事でした。
言葉が出なかった子どもだった
祖父にもらったパソコンが最初の一台
私は小さいころ、人前で話すことができない子どもだったのです。2歳くらいまで言葉が出なく、話すことがあまり得意ではなかった。そんな私を見かねた祖父が、小学4年生くらいのときに、当時とても高価だったパーソナルコンピューターを1台くれたんです。祖父は岩田写真の創業者にあたる方でした。
人と接するのがあまり得意ではなかった私は、そこからもう夢中でパソコンをやり始めました。最初はゲームやブロック崩し、インベーダーのプログラムを自分で打ち込んでいたくらいですけれど、夢中で取り組んでいました。
姉のピアノに憧れて、プログラムで音楽をつくり始めた
実の姉がピアニストやエレクトーン奏者などを演奏する音楽家でした。姉のようにかっこよくピアノやエレクトーンを弾きたいと思っていましたが、まったく指が動かないので、代わりにプログラムで曲をつくるようになりました。小学生のころ、ピッやプーなどの音を、祖父にもらったパソコンで鳴らしていたのが、私の音楽づくりの原点です。
体もあまり強い子ではなかったので、剣道を無理やりやらされたりもしていたのですけど、体を張って人を喜ばせるサーカスや手品みたいなエンターテインメントが、子どものころからすごく好きでした。ドリフターズなんかも好きでしたね。人を笑わせるほうにはまわれないけれど、それを見る事がとにかく好きでした。
音楽とプログラムへの興味が重なり、中学から高校にかけてはバンドも組みながら、音楽で人を喜ばせたいと一生懸命でした。プログラムも好きだったので、バリバリ理系でした。
機械工学の学生が、劇団の音楽をつくることになった
二足歩行ロボットと自動車衝突の研究
大学は東京に出て、プログラマーや機械工学の方向に進みました。自動車の衝突実験をプログラムする研究室に入り、車がぐしゃぐしゃに潰れていく様子や、車内のダミー人形がシートベルトやエアバッグでどう動くかなどを解析する研究をしていました。写真とはまったく縁のない世界でした。
その傍らで音楽もずっと続けていて、そこで出会った親友から「劇団の音楽をつくってくれないか」と声をかけてもらった事がきっかけで、軽音楽のバンドから劇団の音楽づくりへと軸足を移していきました。プロの劇団です。同じ学校の先輩が主催していたその劇団では、レーザー光線をプログラムで制御して投影する演出もされていて、私はそこで背景に映す映像や効果音をつくる手伝いをするようになりました。そこからミュージカルなど、いろいろな音楽をつくるようになっていきました。
一度だけ舞台に立って気づいたこと
自分から人前でセリフを発する事は苦手ですが、一度だけ演出家に「通行人が足りないから出てくれないか」と頼まれて、セリフつきの通行人役で舞台に立ったことがあります。そうしたら「岩田くんはやっぱり裏方のほうがいいよね」と言われてしまって、それ以降はずっと裏方一筋でした。学生時代は、劇団の仕事と音楽づくりに一生懸命な日々でした。
継ぐ予定はまったくなかった
4代目という立場
岩田写真は今、私で歴代4代目の社長になります。創業者である祖父がいて、その息子である長男、そのだいぶ年の離れた三男にあたる私の父、その息子が私という並びです。2代目の長男の息子にあたる方々も何人かいて、彼らが中学・高校のころに祖父から高価なカメラをもらったりレンズを磨いていたりする姿を見ていたので、てっきり自分以外が継ぐものだと思っていました。私は継ぐラインだとはまったく考えていなかったんです。
大学もまったく畑違いの工学部に進みましたし、卒業後は大手自動車メーカー系の子会社に入社して、衝突実験や設計、特許などの法律関連など、サラリーマンとしての仕事を一生懸命やっていました。
芝居への未練から会社を辞めた
入社して2、3年くらいたったころ、また芝居の現場を見に行きたくなり、仲の良い劇団の先輩のところへ顔を出すと、見つかってしまったのです。「また曲をつくってほしい」という話になって、サラリーマンをしながら夜中に曲づくりをする生活が始まりました。そのうち曲づくりのほうがどんどんおもしろくなっていき、結局会社を辞めて、舞台のエンターテインメントを本業にする道へ進みました。
結婚式のさなかに、父が倒れた
その後フリーランスで活動を続けて、会社も立ち上げていたのですが、いざ結婚するというときに、結婚式の最中に父が脳梗塞(のうこうそく)を発症してしまったのです。当時の私は「写真屋なんて」という気持ちが正直ありました。プログラマーで、デジタルオタクだった私と、白衣を着た科学者のような技術者だった父とでは、まったく畑が違うと思っていましたから。
継ぐ気はまったくなかったのですが、「このままだと会社がだめになる」と言われて、一旦決算書だけでも見てみようという話になり、結局そのまま写真館を継ぐことになりました。それが平成15年9月、4代目社長就任の経緯です。
一生懸命やっていた舞台の仕事を手放すのは、正直つらかったです。一緒にやっていたスタッフは2、3人程度でしたけれど、頼りにされていましたし、とにかく引っ張りだこの毎日でした。今から30年以上前のことなので、曲をつくって映像を合わせ、舞台で歌やミュージカルを演出する方は、当時はほとんどいなかったです。
技術者の父とは違う道をつくった
CCDレンズの原理を知っていたことが強みになった
継いだ写真館は、それまでとはまったく違う形でつくり直すことになりました。父は内閣総理大臣や天皇から表彰されるほどの、東北でも名の知れたフォトグラファーで、いわば技術者でした。私が今から写真の技術を学んで父のような存在になるのは難しいと感じましたし、会社も傾いていたのでかなり悩んでいました。
悩んでいた中で、お客様を見ているうちに、とあることに気が付きました。お芝居を見に来てくださるお客様は、期待と同時に少し不安を抱えて劇場に入り、見終わったあとには目をうるうるさせながら満たされた様子で帰っていきます。裏方として黒い服を着てその光景を見続けてきた私は、写真館に入るお客様も同じだと気づきました。家族写真を撮りに来るときは「うちの子はちゃんと撮れるかな」と不安げなのに、撮り終えたあとは家族の絆が少し深まったような顔で帰っていく。この2つの光景が、自分の中で重なりました。
もうひとつの強みは、自動車の衝突解析をしていたころにCCDレンズを制御するプログラムを扱っていたことです。デジタル写真がどういう原理でデジタルになるのか、その仕組みを一通り理解していました。そこで父の代のネガカメラをデジタルカメラに切り替え、当時の日本ではかなり早い段階での転換をおこないました。あわせて衣装をたくさん取り入れたり、子どもを楽しませるために保育士を採用したり、技術中心だった写真館を、エンターテインメント色の強いビジネスに変えていきました。
全国300件を歩いて見つけた答え
うまくいかない10年間
新しくつくり直したとはいえ、カメラもオペレーションもすべてが手探りでした。スタッフには小さい子供を持つ親御さんや、成人記念と同世代のお嬢さんとの距離が近い若いメンバーをどんどん迎え入れて、新しい風を入れていきました。写真業のことがわからなかったので、沖縄から北海道まで、写真館のオーナーを訪ねて経営について話を聞いて歩きました。
そこでわかったのは、写真館のオーナーそれぞれに、仕事への思いがまったく違うということでした。技術中心の人もいれば、仕組みづくりに力を入れている人もいるし、店舗展開している人もいれば、ひとりでやっている人もいる。学校写真専門の人もいます。そうしてまわっているうちに、12歳ほどの一回り年上で、エンターテインメントを写真館に取り入れている先輩経営者と出会いました。この出会いにたどり着くまでが、なによりも大変でした。継いでから30歳から40歳を過ぎるくらいまでの10年間は、簡単にはいきませんでした。
その先輩には、決算書を持って何度も相談に行きました。「なかなかうまくいかなくて」と話すたびに、じっくり話を聞いてくれる人でした。そうやって具体的な経営のかたちを少しずつ学ばせてもらいました。
北東北の家族に「宝物」を届けたい
雪に閉ざされる地域だからこそ
その先輩から繰り返し聞かれたのは、「何のために写真館をやるのか」ということでした。自分の中で出てきた答えは、秋田をはじめとする北東北の子どもたちのことです。北3県(秋田・青森・岩手)は、雪に閉ざされる冬の日照時間の短さなどもあってか、自殺率やうつ病率が比較的高いと言われています。そうした地域の家族や子どもたちに、キラキラ輝く元気なスタッフたちが写真を通じて家族の絆を1組でも多く伝えていきたいと思ったのです。
自分ひとりで撮れる範囲には限界がありますから、このビジョンとエンターテインメント性を持った写真館をもっと広げて、子どもや家族、成人式を迎えるお嬢さん、結婚式を控えたカップルに、記念写真という宝物をどんどん届けたい。子どもがかわいらしく写っていて、それを両親が優しいまなざしで見つめている写真を想像してみてください。そういう写真を見て育てば、大人になって親に反発することがあっても、極端な行動には走らないのではないかと思うのです。
子どもを笑わせたり、家族写真のいい雰囲気をつくったりするのは、保育士や子ども好きの若いスタッフ、美容師やスタイリストのほうが、私よりずっと上手です。だからこそ、自分ひとりで撮り続けるのではなく、そうした地域それぞれで宝物づくりができる写真館を増やしていくことが、今後も変わらないビジョンです。写真だけでなく、AIによる映像加工なども取り入れながら、家族の思い出づくりの幅を広げていきたいと思っています。ちなみに私自身、写真館を継ぐタイミングで一度やめていた音楽を、最近またAIに手伝ってもらいながら再開しています。音楽配信アプリで「PANORAMA NOTE(パノラマノート)」と検索すると、私の楽曲が出てきます。
学生に伝えたいこと
タイムパフォーマンスより、夢中になった時間が財産になる
今の学生はタイムパフォーマンスを重視すると言われますが、私自身は昔から何かに夢中になると気づいたら朝まで作業しているような人間でした。今から振り返ると、時間を投資したことこそが自分の財産になっています。こどもの頃から好きだったサーカスなどのエンターテインメント、音楽、パソコンのプログラム、機械の力学、そのすべてに一生懸命だった時間が、写真館を継ぐときに1つに結びついたのです。
スティーブ・ジョブズの講演で、「点と点がつながって線になる」という話を聞いたことがあります。あの話を聞いたとき、鳥肌が立ちました。過去に一生懸命やってきたことが、まったく無駄ではなかったと気づいたからです。うまくいかないことや失敗のほうがずっと多かったですし、今の状態を成功と呼べるかというと、まだ道半ばだと思っています。それでも、一生懸命やってみることに、タイムパフォーマンスという考え方はなじまないと感じています。かけた時間がそのまま知識になり、失敗を重ねるほど成功に近づく確率が上がっていくものだと思うのです。
多くの人は、成功の道と失敗の道が途中で分かれていると思いがちですが、実際には一本道です。失敗を積み重ねた先に成功があるだけで、分かれ道はありません。
人生の先輩に出会ったら、遠慮なく相談してみてほしい
一生懸命に動いている人に対して、私たちくらいの年代や人生の先輩にあたる方たちは、何かを与えたいと感じる方が居てくれたりします。人生の中で、そういう人と出会えるタイミングが何度かきっとあると思います。その瞬間を逃さずに、勇気を出して声をかけてほしいと思います。すべてを鵜呑みにする必要はなくて、自分に必要な部分だけを受け取って、自分の思いを具体化していけばいい。ただ、そのような出会いは、一生懸命に行動している人のところへしか訪れないものだとも感じています。
行動する理由が先になくてもかまいません。理由なんか無くても行動しているうちに、あとから自分の中に理由が生まれてくることもあります。私自身、写真館と劇団という一見まったく違う世界が組み合わさって今があるので、それは実感していることです。
この会社のよくある質問
未経験でも働けますか?
今は未経験でも、まったく問題ありません。美容師や保育士、カメラマンとしての経験がなくても大丈夫です。写真やヘアメイクは入社してから私たちが教えていますし、新卒の総合職も採用しています。長い人生の中で、一度は本気になって好きなことをやってみようと思うかどうかです。
どんな人が向いていますか?
人を喜ばせることが好きな人ですね。面接では「人が幸せそうにしている光景を見て、幸せを感じますか。それとも自分と比較して不幸を感じますか」という質問をあえてすることがあります。人の幸せを見て自分と比べてしまう人かどうかは、そのときの表情で伝わってきます。
編集後記
今回のインタビューを通して、学生時代に夢中になったことは無駄にならないという言葉が、いちばん心に残りました。岩田さんが「タイムパフォーマンス」という言葉に触れつつも、一生懸命さの積み重ねが後から意味を持つと語ってくれたのは、目先の効率ばかりを気にしてしまいがちな私たち学生にこそ、あらためて届けたい言葉だと感じました。目の前のことに理由なく夢中になってみることも、ときには大切な選択なのだとおもいます。貴重なお話を、ありがとうございました。