音楽に明け暮れた学生時代
パンクバンドで音楽漬け
学生時代は、ずっと音楽に打ち込んでいました。幼少期からピアノをやっていたり、中学は吹奏楽部だったり、高校以降はバンドをしていました。本格的に始めたのは大学に入ってからで、学内のサークルではなく外でメンバーを見つけて活動していました。ジャンルはパンクで、楽器はベースボーカルです。見た目の雰囲気とはちょっとギャップがあるとよく言われます(笑)。
文学部新設学科の一期生
大学は文学部でした。新しく学科ができるタイミングで、そこの一期生だったんです。文学部の中でもメディア系に進みたい人が入るような学科で、なんとなく良さそうだなと思って選びました。もともと本を読むのが好きだったので、文学部が合っているだろうという感覚もありましたね。
フリーターから10年の会社員生活
妻との結婚を機に就職
大学を卒業してからは、1回フリーターになりました。中古CDショップでバイトをしながらバンドを続けていて、それが2年くらいです。当時はインディーズでCDも出していて、メジャーデビューをしなくても、バイトをしながら音楽で食べていければいいなと思っていました。芸人さんもそういう人が多いと思うのですが、それに近い感覚です。就職したのは、今の代表である妻との結婚を視野に入れたタイミングで、フリーターのままでは難しいという判断からでした。
ブラック企業から商社へ
そこから何回か転職をして、商社に入りました。ここが一番長く、トータルで10年ほど会社員をやっていたと思います。商社もかなりハードで、決められてはいないけれど夜通し飲まなければいけない空気があったり、ゴルフも絶対だったりして、残業も49時間くらいで一度止めて、また無限に続けるような感じでした。ただ、コンプライアンス自体はきちんとしていました。その前にいた会社は、人格否定や暴力までありましたから、それに比べれば商社はまだマシでした。ハードだけれど成長も待遇もついてくる、という感覚でしたね。
副業からの独立、そしてコロナ禍
残業禁止で始めた副業
商社であまりにも残業が続いていたので、あるとき「残業禁止」という指示が出たんです。それをきっかけに時間ができて、不動産系の副業を始めました。そこで会社員を辞めて独立をして、1人経営者のような形で活動していました。これまでの嫌な経験もあり、会社に依存することが怖くなった、というのも大きかったです。
継ぐ以外に道はなかった
不動産の事業を拡大しようと考えていた時期に、コロナ禍がやってきました。本業をどうするか考えていたタイミングで、妻の実家の家業も厳しくなり、妻の父の代でそろそろ辞めるという話が出てきたんです。M&Aなども含めていろいろ手は尽くしたのですが、他に残す方法が見つかりませんでした。だったら自分たちでやろう、ということで継ぐことになりました。
継承した老舗の重み
紙とアナログからの脱却
引き継いだ当初は、管理の部分がいちばんつらかったです。総務や経理、諸手続きがすべて紙と手書きで、それをひとつひとつ洗い出して整えていくのが本当に大変でした。
技術継承に5年をかけて
技術面は、先代である妻の父が1人でやってきたことを引き出して再現するのが、死ぬほど難しかったですね。ようやく形になってきたのは、5年かけてのことです。社会人としての共通言語がまったくない70代の義父・義母から仕事を引き継ぐのは、簡単ではありませんでした。製造のスタッフを雇っても、途中で辞められてしまうと、せっかく教えた技術がゼロに戻ってしまいます。今はマニュアルや評価制度が整っていない分、決められた通りにやりたいという志向の方には合いづらい面もあって、他社と比べても人材が定着しにくい状況です。今は妻が製造の現場に入りながら、複数人のスタッフで分担して技術を継承していく体制にしています。
元祖 鯱もなかという商品
大正10年創製の鯱もなか
今の看板商品は、名古屋名物の元祖 鯱もなかです。大正10年(1921年)に、名古屋城の金のしゃちほこをかたどって創製されたもので、戦前から続いています。長きにわたって、観光土産や贈答品として親しまれてきました。これを主軸に、名古屋らしいしゃちほこの形をしたお菓子を中心に展開していて、それ以外にフィナンシェやパイなども作っています。
和菓子屋ではなくメーカー
本店は1店舗だけですが、名古屋駅や名古屋城、サービスエリアなど、お土産物屋さんに置いてもらっている分が半分以上を占めています。和菓子屋というイメージを持たれることが多いのですが、実際は工場を持って各所に出荷しているメーカーという側面のほうが大きいんです。
商社と不動産で得た発信力
商社時代にいろいろな関係者の合意を取りながらまとめていく調整力は、今も活きていると思います。もう一つ活きているのが、不動産の副業時代の経験です。毎日ブログを書いたりSNSを発信したりして、反応率を高めながら案件につなげる、という細かい発信の感覚を身につけました。今の情報発信は、その延長線上にあります。なお、不動産の副業は現在はおこなっていません。
これから目指す姿
ストーリーとともに残る価値
うちは100年やってきているので、その中でしかわからないお客様の声があります。何十年も前にこういうシチュエーションで鯱もなかを食べた、渡した、もらった、という記憶が、その方の人生のストーリーと一緒に残っているんです。これは、長く続けてきた企業でないと提供できない価値だと思っています。だからこそ、同じ形で残していくことが、まずひとつ大きなミッションです。今、子どもたちが大人になったときに、この商品に見覚えがある、自分も食べた、という記憶が積み重なっていくような商品提供をしていきたいですし、名古屋を象徴する商品として、地域への貢献にもつなげていきたいと考えています。
外部との協力が鍵になる
自社だけでできることには限りがあります。製造には設備も人もお金も場所も必要で、正直すべてが足りていません。だからこそ、自社だけで完結させるのではなく、企業や行政、著名人の方などとコラボレーションやジョイントベンチャーのような形で外部の協力者を増やし、手を取り合ってやっていくことが重要だと思っています。
学生へのメッセージ
AIを使いこなす側になる
将来が不安な学生に伝えたいのは、AIはもう使うしかない、ということです。AIに仕事を奪われるのではなく、AIを使える人に仕事が回ってくると思うので、どんな進路に進むにしても、AIはマストでやったほうがいいと思います。その上で、どうなりたいかわからないという人は、いろいろやってみるのがいいと思います。タイミーなどでいろいろな職場に入ってみて、お金をもらいながら現場を見てみる。そうやって世界を見る中で、やりたいことが見えてきて、そこから合った道に進めばいいのではないでしょうか。
リアルな体験の価値は残る
AIやメタバースのようなバーチャルな世界が進化していくほど、リアルな場やリアルな交流、リアルな体験の価値は上がっていくと思います。技術で代替できない老舗や伝統工芸のようなものの価値も、その中で上がっていくのではないでしょうか。もちろん、いずれは伝統工芸の全工程が解析されて再現できるようになるかもしれませんし、フィジカルAIが今のようにコストがかかるものでなくなったときにどうなるかは、正直よくわかりません。それでも、生身のものや手作りのものの価値は残っていくような気がしています。
編集後記
今回お話をうかがって、印象に残ったのは「継ぐ以外に道はなかった」という言葉です。バンドマンからフリーター、会社員、独立、そして老舗の承継と、一見バラバラに見える経歴のひとつひとつが、今の古田さんの調整力や発信力につながっていることがよくわかりました。AIについて「使う側に回るしかない」と語る姿は、変化を恐れず自分の役割を更新し続けてきた古田さんらしいと感じました。私自身も学生として、まずはいろいろな現場に飛び込んでみようと思います。