インタビュー

田んぼを自転車で走り回った悪ガキが、雑誌広告の世界にたどり着くまで

田んぼを自転車で走り回った悪ガキが、雑誌広告の世界にたどり着くまで
PROFILE
株式会社green peace 代表取締役 
山本 裕教

やんちゃに明け暮れた少年時代

いたずらばかりしていた

三重県出身なんですけど、小学生の頃は本当にいたずらばかりしていて、よくいろんな親御さんが家に怒鳴り込みに来てましたね。友達の眼鏡を川に流したり、給食袋を振り回して友達の家の屋根に上がったりしていました。田んぼの中を自転車で走り回ったり、いたずらをしたりして、おじさんに「クソガキが」と怒られたこともあります。通知表に「無責任」と書かれていたのは、なんとなくそうだったんだろうなと、今でも少し引きずっています。

目立つのが苦手だった

中学生になると、だんだん大人しめになっていったんですよね。クラスの中心にいるようなグループではなく、周りの目を引くようなタイプではなく、どちらかといえば大人しいグループで、ごく一般的な集団に属していたように記憶しています。昔から人前に立って目立つようなことは苦手で、部活動も基本的には帰宅部でしたが、誘われるがままに卓球部へ顔を出してみる程度でした。高校時代もどちらかといえば静かなタイプではあったものの、パチンコ店に入り浸ってみたり、友人に誘われて夜な夜な麻雀に興じたりと、それなりに遊び歩いてはいましたね。うちは母が専業主婦で、父が地方公務員、消防士だったんですけど、私自身は正直なにも考えていない子どもで、高校を卒業したらどこかの飲食店で働くのかな、くらいにしか将来を考えていませんでした。

東京でいろいろな仕事を転々とした

音楽の夢を追って上京した

高校卒業後、友達の影響で東京の音楽の専門学校に入学しました。とはいえ2〜3ヶ月で辞めてしまったので、学生らしいことはほとんどしていません。当時はCDでメジャーデビューしたいという夢があって、バンドマンをしながらアルバイトを転々としていました。すき家さんやバーガーキングさん、マクドナルドさん、喫茶店、スーパー2階のアパレル店でのレジ、ガソリンスタンド、警備員、夜のお店の電話取り番や運転手、ボーイ、ヨドバシカメラさんでの携帯販売、ケーブルテレビ会社での営業など、本当にいろいろやりました。3ヶ月くらいで辞めて次の仕事に移ることもよくあったので、企業さんからすればすごく迷惑なやつだったと思います。

経営を任されることになった

28、9歳の頃、音楽事務所での仕事もうまくいかず、メジャーデビューは諦めることになりました。その後バンドのマネージャーになり、しばらくインディーズで活動していたんですけど、その時に一緒にいたメンバーと何人かで、雑誌専門の広告代理店を立ち上げることになったんです。私は書類関係や役所関係の手続きが得意だったこともあって、共同経営者から代表をやらないかと言われて、代表を任されることになりました。

39歳での再出発

経営方針の違いで袂を分かった

7年ほど一緒にやっていたんですけど、経営方針の違いから大喧嘩になってしまって、弁護士さんも入るような形で袂を分かつことになりました。ちょうどそのとき、私は39歳で結婚を控えていた時期だったんですよね。当時は40前後の男性を雇ってくれる会社なんてそうそうないだろうというイメージがあって、周りからも「辞めてどうするんだ」とよく言われていました。それなら自分でなにかするしかないなというところで、流れで独立することになったんです。これが今の会社を創業したきっかけになります。

出版社の担当者に背中を押された

正直、独立した当初はこの業界から離れるつもりだったんですけど、これまでお付き合いのあった出版社の担当者の方々から、「一緒に仕事しよう」と声をかけていただいたんです。出版社にとって広告代理店は営業マンのような存在なので、そういう縁もあって、株式会社green peaceとして、以前の会社と似た事業を続けていくことになりました。

雑誌に特化した広告代理店

大手出版社の雑誌を扱う

弊社が扱っているのは、「CanCam」や「anan」、美容専門誌の「MAQUIA」、宝島社さんの「sweet」、以前は紙で発行されていた「JJ」といった女性ファッション誌を中心とした雑誌広告です。広告主さまを探す営業活動から原稿制作、出版社への掲載依頼まで、いわゆる広告代理業です。

出版社まわり全般に対応する

強みは、テレビやラジオ、インターネット広告にはあえて手を広げず、雑誌や出版社まわりに特化していることです。厳密には出版社まわり全般と言ったほうが近くて、雑誌のオンライン媒体への広告出稿や、プリンスホテルさんや表参道ヒルズさんといった会場で行われる出版社主催のイベントでの広告メニュー、漫画アプリの広告なども手掛けています。20年近くこの業界にいるので、大体のことはわかるようになりました。

運転資金が底をついた日々

売上が急に落ち込んだ数年間

ありがたいことに新型コロナウイルスの影響はあまり受けなかったんですけど、その後の数年間で、それまで売れていた企画や広告メニューが急に売れなくなってしまったんです。調子のいい時期は人を採用したり、新しいウェブ企画に投資したりしていたんですけど、銀行からの借り入れも増えていきました。右肩上がりが続くと思っていた矢先にうまくいかなくなり、投資していたものが軒並みリターンを生まなくなってしまいました。

スタッフに辞めてもらうつらさ

キャッシュが底を突きかけていた時期、取引先と連絡が取れなくなって、いわゆる夜逃げのような状態に遭ったこともあるんです。最終的には、該当する仕入れにかかった費用の全額を、自社で負担せざるを得ない結果となってしまいました。

そんな状況が重なって、支えてくれていたスタッフに「辞めてほしい」とお願いせざるを得なくなったんです。これが一番つらかったですね。6年ほど頑張ってくれていた社員だったので、「恨まれても仕方ない」と伝えるしかありませんでした。少人数で家族のようにやってきたからこそ、余計に重い決断でした。今は当時の3名ほどに退職していただいたことで、毎月の人件費が100万円近く減り、低空飛行ではありますが、どうにか維持できている状態です。

雑誌の先にある挑戦

雑誌にプラスアルファをつける

これからは、競合他社がやっていない新しい価値をつくっていきたいと考えています。美容家さんをキャスティングして記事として掲載したり、編集部との連携を強化したりしていきたいですね。雑誌広告とYouTubeを連動させて、お店やブランドの魅力をもっと紹介できるような取り組みにも挑戦したいと思っています。制作チームづくりやマーケティングリサーチなど、簡単なことではないんですけど。

コミュニケーション術を伝えたい

この仕事を長く続けてくる中で気づいたのが、コミュニケーションの大切さです。忙しい方が多いメディア業界では、テンポよく物事を決めていく力や、相手の本質的な要望を先読みして言葉にする力がすごく重要なんですよね。逆に言葉選びひとつで相手を傷つけてしまったり、こちらが意図しないクレームにつながったりすることもあります。こうしたメディアとのお付き合いで培ったコミュニケーション術を体系化して、上司や部下との連携に悩むビジネスパーソン向けの教材やお手伝いとして、雑誌とは別の事業で立ち上げていきたいと思っています。

これから社会に出る人たちへ

経験がすべてになる

私が生まれた時代より今のほうが生きづらい面もあると思うんですけど、振り返ると、いろいろな仕事を経験できたことが本当によかったなと思います。実家にいた頃は限られた世界しか知らなかったので。大人になって自由が利くようになってから、美術館や旅行にもっと早く行っておけばよかったと思うことも多いです。若い時にしかできない経験がたくさんあるので、経験そのものが後の人生に効いてくると思います。

知恵とコミュニケーション

知識は道具のようなもので、それを組み立てて新しいことをつくり出すのが知恵だと思っています。大学に行っていない私が、実家を離れて一人でやってきて感じるのは、どんな仕事の現場でも創意工夫や知恵がすごく重要だということです。それから、挨拶ができるか、笑顔をつくれるか、相手への配慮ができるか。AIがいろいろな仕事に取って代わるという話も聞きますが、人と人が心を通わせるコミュニケーションこそ、これからも変わらず大切なことだと思っています。

編集後記

学生団体のインタビュアーとして、今回とても印象に残るお話を伺いました。三重県での悪ガキだった少年時代から、東京でのさまざまなアルバイト経験、そして39歳での独立という決断まで、山本さんの歩みには「経験がすべて」という言葉の重みが詰まっていました。経営危機の中でスタッフに退職をお願いせざるを得なかったお話は胸に刺さるものがあり、コミュニケーションを大切にされている姿勢が、取材中のやり取りからも伝わってきました。貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。