インタビュー

「一歩踏み出せば、人は変われる」——英語もできなかった青年が、越境体験で人生の転機をつくるまで

「一歩踏み出せば、人は変われる」——英語もできなかった青年が、越境体験で人生の転機をつくるまで
PROFILE
SEKAIA株式会社 代表取締役社長
曽根靖雄

待つだけだった、自信のない中学・高校時代

田んぼを走り回っていた、野生的な子ども時代

神戸の六甲山、その裏側にある田園地帯で生まれ育ちました。何も考えず、好きなことだけをする。野球が好きで、田んぼの中を走り回っているような野生的な子供時代でしたね。家にはほとんどおらず、外で遊んでばかり。一言で言うと「何も考えていなかった子ども」でした。

周りが変わるのを待っていた中学時代

中学生になるとすこしずつ色気づくものですが、僕はまったく異性から注目されることがなかった。友人たちはかっこよかったり、スポーツができたりと、自分にはない要素を持っていて当然なのですが、当時の僕はそれを認めたくなかった。好きになった子はたいてい、仲のいい親友のほうに持っていかれてしまう。バレンタインのチョコレートを初めてもらったのが高校2年のことですから、それまでいかに自分らしさを発揮できていなかったかわかってもらえると思います。

もともとは呑気で自分勝手な毎日を送っていたのに、この頃から「自分には魅力がないのではないか」という思いに囚われはじめました。それでも努力するわけでもなく、ただただ周りの状況が好転するのを待つだけ。今考えるとありえない話ですが、そんな自分に気づくまで4、5年もかかってしまいました。

生徒会への立候補が、人生最初の転機になった

高校1年生のとき、「このままここで終わっていいのか」という焦燥感がり、生徒会に立候補しました。もともと目立つタイプではなかったのですが、友人の後押しもあって選ばれた。それが、私の人生の最初のターニングポイントでした。

生徒や先生が抱える問題、校則、文化祭の運営。当事者として主体的に関わるようになると、自分が物事のイニシアティブをとり、より良い方向へ動かしていくことの面白さに初めて気づいたのです。「待つのではなく、自分から動く」。その感覚は、今も私の根底にあります。

この感覚が強烈に刻まれたのは、4、5年も「自分に自信が持てない時期」が続いたからこそだと思います。その低迷があったからこそ、一歩踏み出したときのブレイクスルーの感覚が本当に大きかった。周りが変わるのを待つ人生から、自分が動く人生への転換。あの原体験が、その後の自分をずっと動かし続けているのだと思います。

今、私は人材育成に30年間携わっています。なぜこの仕事がこれほど続くのかを考えると、やはりあの頃の体験があるからです。自分のような「自分に自信が持てなかった自分」でもそれなりにやっていけるようになった。自分より優秀で頑張り屋の人たちが、20代・30代になって元気をなくしているのを見ると、「絶対大丈夫だから」と心から伝えたくなるのです。

段ボールに「東京」と書いて、世界が広がった

高校で主体的に動くことの喜びを知った私は、大学時代、さらなる可能性を探って様々なアルバイトに挑戦しました。合計20にのぼるバイト経験の中で、いくつかの大切な気づきがありました。

スイミングスクールのインストラクターは時給が低かったのに、何時間でも子どもたちと関わっていたかった。人の成長を間近で見ることに、純粋な喜びがありました。一方、配達のバイトでは、ルートや荷物の積み方を自分で工夫するほど成果が上がる。「工夫の余地がある環境こそが自分を輝かせる」と気づいたのも、このころです。好きと得意が、少しずつ自分の中でつながり始めていきました。

ヒッチハイクで日本を縦断し、バックパックで世界へ

就職活動の時期を迎えたとき、私はやりたいことが明確ではありませんでした。ただ、大学時代にヒッチハイクで日本中を回り、そこから海外もバックパックで旅した経験が、大きく影響していました。段ボールに「東京」と書いてパーキングエリアに立ったあの瞬間から、世界はどんどん広がっていきました。福岡も面白い、北海道も面白い。なら、世界はどうだろうと。

海外で知り合ったドイツ人、スイス人、フランス人……同年代のバックパッカー仲間との対話を通して、生き方やキャリアのつくり方が自分の中で形づくられていきました。日本の「大学3年生で就活、4年生で内定、あとは働き続ける」という常識への違和感が、潜在的なものから顕在的なものへと変わっていったのです。

日本での就職はやめて、海外で働こうと決めました。英語圏の中で唯一、友達がいなかったニュージーランドを選んだのは、誰にも頼らない環境に身を置きたかったからです。

仕事が見つからない。資金も尽きる。

「5年は帰らない」と出てきたのに

1989年、ニュージーランドに渡りました。仕事は簡単に見つかると思っていた。ところが当時の欧米先進国は即戦力しか採らず、新卒一斉採用の文化もありません。行くところ行くところで門前払い。落ち込む暇もなく、じわじわと資金が減っていきました。

「5年は帰らない」と言って出てきたのに、2週間目には「このままでは3ヶ月しかいられない」と気づくほど、お金がなくなっていく。その焦りの中で、宿の人に紙を借り、「何でも屋です」という貼り紙を街中に貼り出しました。

電話をくれたのは、教会だった

連絡をくれたのは教会でした。ボランティア募集で、最初は断ろうとしました。でも、直感的に「やったほうがいい」と感じ、引き受けることにしたのです。役割は、難民向けに無料で英語を教える教室のレイアウトを整えること。つまり、掃除でした。お金がないのにボランティアだなんて、という状況でしたが、その選択が人生を変えます。

掃除を通じて信頼を築いた英語教師から「一緒に英語学校を立ち上げないか」と誘われました。必死に取り組んだ結果、3ヶ月でクラスが4つに増えるほどの成果になりました。誘いを断らず、目の前の仕事に全力で向き合う。その姿勢が、次々と扉を開いていったのです。

やがて、週末のホームパーティーで一人の投資銀行家と出会います。「ニュージーランドで最初の私立大学を一緒につくらないか」という誘いでした。学校も生徒も、ノウハウも教室も何もない。まさにゼロからのアウェイの挑戦が始まりました。

生徒1,500人の大学に育つまで

スタッフ3、4人から始まったプロジェクトは、3年後に大学の認可が下り、私が去るころには教員含めて800人近くに、生徒も1,500人を超えました。半分がニュージーランド人、半分が外国人の国際大学として運営するなかで、一つの確信が生まれました。留学生の成長速度が、地元の学生と比べものにならなかったのです。アウェイにいるから不自由な体験が多い。不自由な体験が多いほど工夫する力が育ち、自分の殻を破る力が育ち、失敗の分だけ成長する。これが今の事業の原点です。

「不自由体験」が人を育てる——越境体験による人材育成とは

留学エージェントではなく、人材育成会社

現在は、「Life-Changing Experience(価値観が覆る体験)を提供すること」をミッションに事業を展開しています。よく留学エージェントと見なされますが、それはあくまで手段に過ぎません。本質は、越境体験を通じた人材育成にあります。

 

私たちの根底にあるのは「高い難易度に挑むほど、人は大きく成長する」という信念です。会議で意見が通じない、評価が厳しい、生活習慣がまったく違う—そういった不自由さこそが若者を成長させると確信して、90年代に日本人の海外インターンシッププログラムを立ち上げました。9ヶ月の海外大学での学びと、3ヶ月のフルタイム就業を組み合わせた「IBPビジネス留学プログラム」は30年以上続き、これまでに6,500名以上が修了しています。

修了生の1割ほどが起業し、なかには海外で起業する人も増えています。ボーダレスジャパンの田口一成さんやプログリッドの岡田祥吾さんもその一人です。彼らはフォーブスジャパンの表紙を飾ったり、社会へのポジティブな影響力を高めています。「自分ならできる」という確信は根拠のある自信だから強い。その力が、社会の歪みを正したいという起業家精神につながっていくのだと思います。

日本をもっとカラフルな社会へ

オークランドで、「外国人」と思ったことがなかった

5年間暮らしたオークランドで、今でも心の中心に残っていることがあります。あらゆる人種や文化が混在していても、それが普通に受け入れられる。暮らし始めて数年後、ふと気づきました。「自分が一度も外国人だと感じたことがない」と。東京や神戸では、外国人はやはり外国人として扱われているだろう、と。

異なる文化、価値観、宗教観を持つ人たちが点在するなかで生きていると、相手を好きかどうかは別として、自然と受容できるようになります。外国人にとって住みやすい国は、日本人にとっても住みやすいはずだ。誰もが自分らしく、決めつけられずに生きられる社会にしたい。それが私のゴールです。

2つのエンジンで、日本をカラフルにする

そのために動かしているエンジンが2つあります。

1つ目は、多様な価値観を持った日本人を増やすこと。越境体験によって自己肯定感を高めた人たちが帰国し、日本のコミュニティを変えていく。

2つ目は、日本への愛情と野心を持った海外の若者を受け入れること。単に外国人労働者を増やすのではなく、日本の文化が好きで、日本のコミュニティの一員になりたいという人たちを迎えたいのです。

2011年に立ち上げた課題解決型研修では、地方の企業や農家で外国人若者が働くプログラムを展開しています。これまでに数千人を受け入れ、帰国後のアンケートでは9割以上が「日本で働きたい・住みたい」と答えてくれます。年間1万人規模に育てられれば、そのうち3,000人が日本に残る。多様な背景を持つ若者が各地に根を張ることで、日本はもっとカラフルになると確信しています。

世界に出ていく日本人も、日本へやってくる世界の若者も増やしたい。そして、その交流そのものを楽しいと感じてもらいたい。そのために、これからも走り続けます。

 

編集後記

田んぼを走り回っていた少年時代から、言葉も通じないニュージーランドでゼロから大学を立ち上げるまで。曽根さんのお話を伺い、強く感じたことがあります。それは、かつてご自身が抱えていた「いけていない自分」というコンプレックスこそが、誰よりも人の可能性を信じ、挑戦を促すための原動力になっていたということです。

「難易度の高い環境こそが、人を一番成長させる」。
そう確信して走り続ける曽根さんの視線の先には、世界に出ていく日本人も、日本に入ってくる外国人も、互いに溶け込み合い、色鮮やかに混ざり合う未来がありました。

「自分なら何でもできる」
これまでの圧倒的な挑戦の数々を経て紡がれたその言葉には、途方もない重みと温かさがありました。日本という国を、もっと多様で、もっとカラフルにしていく。そんな熱い想いに触れ、私たち自身も「挑戦していいんだ」と背中を押されるような貴重な時間でした。