インタビュー

故郷は場所じゃない、人なんです。ブラジルからやってきた代表取締役が見つけた「第二の故郷」

故郷は場所じゃない、人なんです。ブラジルからやってきた代表取締役が見つけた「第二の故郷」
PROFILE
株式会社栃木日光アイスバックス 代表取締役
セルジオ 越後

ブラジルで生まれ、サッカーと出会った

ブラジル生まれ育ち

私はブラジルで生まれ育ちました。日本に来たのは二十七歳のとき。もう五十三年、日本に住んでいます。昭和四十七年に初めて来日したときは、パソコンもiPhoneもなく、ガラケーどころか公衆電話の時代でした。

サッカーは遊びの中で覚えた

ブラジルでは、日本の子どもが三角ベースをやるみたいに、サッカーはひとつの遊びとしてみんなで集まってやるものなんです。学校ではやりません。向こうは「スポーツ文化」で、日本は「種目文化」。学校の部活動を通してひとつの種目に絞られる日本とは、そこがまったく違います。

サッカーだけじゃなく、バレーボールもバスケットもハンドボールも、いろいろな種目に同時に触れられるのがブラジルなんです。私自身も、いろいろなところでプレーしているうちに、周りの人が自分の応援するチームに連れて行ってくれるようになりました。スカウティングはファンがするんです。ちゃんとした環境で練習できるのは合格した人だけで、あとはみんな試合をする。誰かが「あの人うまいね」とどこかに紹介してくれる。それがブラジルのサッカーの発展のもとになっています。

学校は選手を育てる場所じゃない

日本の学校は、あくまで生徒を教育する場所であって、選手を育てる義務はありません。二百人のサッカー部員がいても、みんな授業を受けることが優先の生徒です。クラブ化されているところだけ、選手として強化される。この違いが、国際サッカー連盟の年齢区分ともずれを生んでいます。日本は小学校・中学校・高校で六・三・三と学年が区切られるので、たとえば今年の小学六年生と中学三年生は一年間しか一緒にプレーできず、進学のたびに二年ほど関係が中断されてしまうんです。

プロを引退して、日本に留学した

留学だと気づかせてくれた一言

ブラジルでプロ選手として活動して引退したあと、藤和不動産というクラブの社長にあたる方から、日本に来ないかという誘いをいただきました。イタリア系の社長で、サッカーもできて、勉強もできて、給料も家ももらえるという条件でした。あまりに良い話だったので、私はブラジルの勤め先の社長にどう思うか相談したんです。そうしたら、その社長にこう言われました。「こんな素晴らしい留学のオファーがあるのに、なぜ俺に相談するんだ」と。

私は、それを留学だとは思っていなかったんです。でも社長は「留学はお金を払って行かせるものだ。あなたが行かないなら、俺の息子を紹介してくれ」と。お金をもらって違う国に行って、違う文化と付き合って、言葉も覚えられる。それは本来お金を払って行くようなことなんだと言われて、私はそこで決断しました。二年契約で、ダメなら帰ってこいと言われて日本に来たんです。

言葉はサッカー教室で覚えた

来日した当初は言葉がまったくできませんでした。プレーするだけなら喋らなくてもいいですが、指導するとなると言葉ができないと成り立ちません。現役を辞めてサッカー教室を始めてから、言葉がどんどん発達していきました。相手は小学生ですから、ちょうどいい難易度だっただと思います。実際、教室に見に来た親御さんに「あなたの日本語は小学生にちょうどいいですね」と言われたことがあって、それがひとつのヒントになりました。

日本で選手を引退してから二十五年ほど、日本サッカー協会の普及行事として全国を回って、たくさんの子どもたちにサッカーを教えてきました。選手のときは、拘束されていたので、世界がとても狭かった。スタンドの人たちは自分を見てくれているけれど、自分はスタンドの人たちを知らない。それでは困ると思って、外に出て指導者として全国を回るようになってから、出会いがどんどん増えていきました。それが日本に長く残るきっかけになったんです。

廃部寸前のチームを任されて

二十一年前、日光アイスバックスというアイスホッケークラブ経済難で廃部になる寸前まで来ていて、そのお手伝いをお願いされました。そのまま代表を務めることになり、今も続けています。専門はサッカーですが、そこは関係ありません。今、自分のチームのスタンドがいっぱいになっているのを見ると、あれは全部自分の友達だという実感があります。プレーヤーのときにはなかった喜びです。

故郷は場所じゃなくて、人なんです

仲間が多いところが故郷になる

二年の約束で来たはずが、気づけば来日して五十三年になっていました。人と出会うほど、故郷は変わっていくんです。故郷は場所じゃありません。仲間が多いところが、自分の故郷になる。学生時代から社会人になるまで、東京に人脈が増えていくと、離れた地元との関係は自然と減っていきます。それが人数として逆転した瞬間に、故郷が入れ替わるんです。ホームシックというのは、地域が恋しいんじゃなくて、仲間といたいという気持ちなんですよ。

帰る場所には、もう友達がいない

今、ブラジルに帰りたいと思うことはあまりありません。仕事なら行きますが、帰っても私はもう八十を超えていますから、「あの人はどう?」と聞いても「もう亡くなったよ」という話になる。もといた友達も、みんなどこかに出かけてしまっている。今住んでいるところに親しい人がいるほうが、よほど楽しいものです。

人と人とのつながりを、大事にしてほしい

名刺よりも電話をかける

私は今でも、お正月の年賀状を出しません。電話で「あけましておめでとうございます」と伝えます。なぜかというと、人に近づく一番の方法は会うこと。次にできるのは、自分の声を届けることです。活字は誰かがまねをすれば同じものが作れてしまいますが、声は自分にしか出せません。電話をすると、相手は今でも「わざわざすみません」と言ってくれますが、年賀状を送って、返事の年賀状をもらったことは一度もありません。名刺交換も悪くはないですが、ファイルにしまえば、どこにあるかわからなくなってしまいます。

日本に来たとき、私には名簿がありませんでした。大学までいれば、OBとして助け合う名簿がありますが、私はゼロから始めるしかなかった。だからこそ、人と会うことにこだわってきました。大阪に住んでいたときも、東京の打ち合わせで相手が気を使ってくれても、あえて自分から東京まで足を運んでいました。

学生にも新しい輪を作ってほしい

学生のみなさんにも伝えたいことがあります。大学を卒業すると、みんな別々の企業に就職します。ただ、同級生会やOB会だけで終わらせるのはもったいない。違う大学を出て同じ職場に就職した人たちで、新しい会を作ってみたらどうでしょうか。そこにお互いの親友を連れてきたら、どんどん人の輪が大きくなっていく。会を続けるうちに人数が増えすぎて、忘年会のお店を探すのが大変になるくらいがちょうどいいんです。それができれば、日本はもっと潤うと思うんですけどね。

今はSNSで友達を作る人も多くて、それ自体は役に立つ部分もあります。ただ、画面の中だけで完結する関係は、思わぬかたちで人を騙すこともある。人と人が実際に会う機会は、意識して増やしていってほしいと思います。

編集後記

セルジオ越後さんのお話を聞いて、まず驚いたのは、五十三年という時間の重みでした。生まれた場所ではなく、出会った人の数で故郷が決まるという考え方は、地方から上京してきた私自身にも重なる部分がありました。効率が求められる時代だからこそ、電話をかける、直接会いに行くといった一つひとつの積み重ねが、結局は一番の近道になるのかもしれません。就職してからの人脈をどう広げていくか、あらためて考えさせられるインタビューでした。