幼いころからの夢
卒業文集に書いた「社長になる」
親も親族も経営者一族だったこともあり、大人になったら社長業をする、というマインドで育てられていたと思っています。小学校の卒業式のときに書く色紙にも「社長になる」というようなことを書いていて、まわりの子が「野球選手になる」と書いているなかで、私は結構そういうことを意識していました。振り返ってみると、小学校高学年くらいからうっすら考えていたのかなと思います。
高校時代はアメフト部に入っていたんですが、一年くらいでやめてしまって、そこから特にクラブ活動もせず、学校に通っていたくらいで、なにか変わったことをしていたわけではありません。ただ、将来三十歳で独立したいという思いがあったので、そこから逆算して何をしていかないといけないかは、結構考えていたかもしれないですね。
商社での修業時代
数字を出して二年で辞めた
創業したいのは不動産会社と決めていたので、あえて不動産会社そのものではなく、不動産会社に材料をおろす総合商社に就職しました。上場している会社で、一年目から成績をあげることができて、数字をあげたので「不動産屋に就職します」と伝えたところ、「ふざけるな、一年で数字をあげて何を言っているんだ」というようなことを言われまして。
二年目もクリアできたので、あらためて辞めさせてくださいと伝えたら、結構すんなり辞めさせてもらえたんです。まわりから何か言われるということもなく、静かに独立に向かいました。サラリーマン時代から、給料や評価は勝手にされるものだと思っていて、あまりそこに重きを置いていなかったんですよね。自分がどう評価されるかより、独立するための経験値や、新しいことを学べる場としてしか捉えていなかったので、仕事が苦痛だったこともありません。
独立を決めた日
不安より「早くやらなきゃ」
独立を決めたのは、二人目の子どもが生まれるタイミングでした。一人目のときはまだサラリーマンで、二人目が生まれると決まったときに、一日でも早く独立して家族を養わなければという思いがありました。三十歳で独立すると決めてから、実は八年かけて準備をしていたので、稼げるかどうかという不安はなく、むしろ早くやらないとという焦りのほうが強かったですね。うずうずしていて、自分の思いを止められないというか。独立しようと決めていた時期が来たので、自然と独立した、という感覚に近いです。
創業期の苦労
人がすぐ辞めていった
創業当時、一番苦労したのは人に関することです。まだルールも決めていなかったですし、評価制度もなかったので、人が入っては辞めていくということが続きました。組織が十人くらいになると崩壊してしまう、ということを何度か経験しています。そこから、和歌山・熊野古道での地方創生の事業を通じて人を集めるという循環を、会社としてつくっていきたいと考えるようになりました。
コロナ禍を乗り越えて
蓄えと在庫で持ちこたえた
創業後、軌道に乗ってから一番大変だったのはコロナのときです。私たちはホテル開発をはじめ、インバウンド向けの不動産開発を事業の柱にしていたので、やっている領域のマーケットがなくなるくらいのインパクトがありました。お金の面と、気持ちの面と、乗り越えなければいけないことが二つありました。
お金の面では、コロナになる前にしっかり利益を蓄えていて、不動産という在庫を抱える商売なので、二年分くらい余力のある在庫を持っていたタイミングでコロナが起きたため、その蓄えで乗り切ることができました。気持ちの面は正直きつかったですが、社員には見せられないので、経営者仲間や先輩経営者に話を聞いてもらいながら、毎日「明日への元気」を奮い立たせて寝る、ということを繰り返していました。
大切にしている習慣
歴史と政治経済に学ぶ
苦しいときほど、歴史や政治経済の勉強をするようにしています。過去にもこういうことがあったけれど、結局はこうなっている、という視点を持つと前向きになれるので、気持ちを安定させる意味でも続けてきました。政治経済のニュースは必ず見ますし、歴史も定期的に振り返るようにしていて、これは学生の頃からの習慣です。金利や為替の動きは不動産事業への影響も大きいので、大きな流れを見るという意味でも、実際の経営に生かされていると思います。
二つの事業の柱
未経験でも仕入れができる仕組み
弊社のメイン事業は不動産開発事業です。事業用不動産を扱っているので、一般的な不動産情報ではなく、プロが使うような内々の情報を扱って事業をしています。この事業だけでグループ売上の95%ほどを占めていて、残りの5%以下が、和歌山・熊野古道で運営している宿泊事業です。世界遺産沿いに宿を構え、同一ブランドでトレッキングのお客さまに一気通貫で宿を提供するという、インバウンド向けの事業になります。
差別化のポイントは、仕入れに特化していることと、そこにITやDXを取り入れていることです。IT業界出身の人間に取締役として入ってもらい、不動産の仕入れ体制を構築してもらいました。顧客管理ツールを積極的に取り入れて業務を細分化・高度化することで、未経験でも事業用不動産の仕入れができるような、再現性のある状態をつくっています。
和歌山を選んだ理由
地方創生と採用をつなげたい
和歌山を選んだ理由はいくつかあって、私の妻が和歌山出身であること、そして不動産事業だけではなかなか採用が難しい業態だと感じていたことがあります。地方創生の事業をしている会社というブランディングで不動産事業を回していきたいと思い、五年ほど前から地方への投資を続けてきました。そのなかで残ったのが和歌山で、世界遺産というポテンシャルもあり、事業とのシナジーもあると判断しました。
BtoB向けの事業用不動産は領域として特殊で、なかなか組織にフィットしにくく、十人ほどの規模で崩れてしまう経験を何度もしてきました。熊野古道の地方創生事業を通じて人を集め、不動産事業にもつなげていくという循環を、会社としてつくっていきたいと考えています。
採用で見ているもの
「コアバリュー」に合うか
弊社では六つのコアバリューを掲げていて、そこに合う人材であれば、新卒・中途を問わず採用したいと思っています。「共存シナリオを持て」「まずはやってみよ」「公明正大であれ」といった価値観に共感し、体現できるかどうかを面接で見るようにしています。
三十分から一時間の面接で完全に見抜けるかというと、難しい部分もあります。明らかに合わないという人は落とせますが、残った人のなかでも実際に働いてみると、また一定数は離れていってしまいます。面接ではコアバリューに合うことをうまく話せていても、入社後に見えてくる部分はどうしても見抜ききれない。特に新卒やスタッフクラスは、この見極めが難しいところだと思っています。
これから目指すもの
大阪と和歌山に橋をかける
パーパスとして最上位に置いているのは「地方が誇れる未来をつくる」ということです。その下に、ミッションとして掲げているのが、熊野古道沿いに宿泊施設を整備していくことです。大阪から和歌山に向けて宿を整備し、経済を運んでいく架け橋になりたいと考えています。千年前からある歴史的な建物を復元させていくことも、このパーパスに近づく取り組みだと考えています。
和歌山でこのモデルができなければ、ほかの地域でもできないと思っているので、まずは和歌山で、大阪から人を流し経済を送り込むということを実現したいです。それができれば、ほかの地方でも同じことができると考えています。とはいえ、コア事業はあくまで不動産事業で、グループ売上の95%を稼ぎながら、5%の事業にミッションやビジョンを紐づけて達成していく。このシナジーを生かしながら、不動産事業のほうも採用を強化し、キャッシュエンジンとして稼いでいくという構図を大事にしています。
編集後記
今村さんのお話を伺って、小学生の頃からの夢を、逆算しながら地道に叶えてきた方だと感じました。数字で結果を出して静かに会社を去ったエピソードや、コロナ禍を蓄えと気持ちの両輪で乗り越えたお話は、経営の厳しさと同時に、備えることの大切さを教えてくれました。歴史や政治経済を日々学び続ける姿勢は、私自身も見習いたいと思います。和歌山から日本の地方へ、経済の架け橋をかけていくという構想が、これからどんな形になっていくのか楽しみです。