ラグビーと建築、ふたつの夢
函館の私立校でトップを走った
高校は函館の私立校、ラグビーに熱中していて、オール北海道(北海道選抜)に選ばれるくらいの選手でした。学校での成績も、あまり勉強しなくても校内で上位にはいたのですが、今考えれば、大学受験を舐めていたんでしょうね。
私の家は建設土木の仕事をしていたんですが、どうしても建築がやりたかった。だから大学も建築系を受けたんですが、ラグビーのスカウトは東京の大学から来ていたのに、それは建築学部じゃない。建築をやりたいから、ラグビーをやめて建築の学校を受けたら、全部落ちたんです(笑)。それが学生時代の最初の挫折でした。
短大のラグビー部創設が転機に
予備校に通ったけど体を壊してしまって、2年ほど何もできない時期があった。そんなとき、ある短期大学がラグビー部をつくりたいということで、私がいた高校の監督のところへ選手を送ってほしいと連絡が来たんです。監督から「お前もある程度やっていたから推薦してやる」と言ってもらって、後輩と一緒にラグビー部をつくる形で短期大学の建築科に入学できました。
入ったからには、と真剣に勉強しました。2年間だけ本気でやったら、4年制と同じくらいの力がついた気がしています。あれだけラグビーでスカウトが来ても振り切って建築を選んだんだから、「貫徹しなきゃダメだ」という気持ちでした。
偶然が重なって入った会社
先輩の一言で営業職へ
今の会社(日本ハウス HD、正式名称:株式会社日本ハウスホールディングス/旧社名 東日本ハウス㈱)に入ったのも、縁としか言いようがなくて。短大の同級生が先に就職していたり、面接に行った別の会社がどうもしっくりこなかったり。そうしたら今の会社が函館にも営業所を出すという記事を新聞で見かけて、「じゃあ受けてみようか」と試験を受けに行ったんです。そこに短大の先輩が1年前から入社していて、「後輩だろ、うちに来い」とその場で支店長に話をしてくれた。ほとんど無試験のような形で入ることになりました。
建築をやりたかった私に、当時の支店長がこう言ってくれたんです。「自分でお客様の家を設計して、デザインして、営業する。そういうエンジニアリング営業をやってみないか」と。これが大きかった。
1件目から芋づる式に紹介が続いた
4月に入社して5月から営業を始めて、最初の飛び込みで訪ねた家が、たまたま国鉄(現・JR)の幹部の方のお宅でした。展示場を日曜日に見に来てくれて、「話を聞かせてくれ」となって、そのまま成約になった。それが1件目です。
2件目はその奥様のご紹介、3件目は友人・知人の紹介と、ポンポンポンと続いていきました。半年で十何件、翌年は30件くらい契約できた。自分なりのマニュアルをつくって、お客様の要望を聞きながら図面を描いて見せる、それがエンジニアリング営業でした。飛び込み営業をしたのは1年目だけで、2年目からは、ほぼ紹介だけになっていましたね。
全国トップを14年半、自分の仕事だから楽しい
9割が紹介というスタイルを貫く
14年半、ずっとエンジニアリング営業でやり続けました。半年ごとの表彰制度「金バッジ制度」で上位1割に贈られる表彰を29回受賞し、そのうち半分以上は全国1位でした。30代のうちに給与・ボーナスで1000万円以上、その後は2000万円以上もらっていた。
それでも苦労したという感覚はあまりないんですよ。家を建てるというのは、普通の人にとって一生に一度の大事業です。その手伝いをさせてもらって、お客様が喜んでくれたら紹介してくれる。そんな良い商売はない、と思っていました。直接契約いただいた件数でいえば600件くらいで、その9割はお客様からの紹介なんです。
好きだから今も商品開発の最前線にいる
いまだに家の設計が好きで、弊社のモデルハウスの最終デザイン確認も私がやっています。それだけ好きなことを仕事にできているから続けられた、というのが正直なところです。
社長就任、そして会社の立て直し
36歳で支店長、39歳で役員、48歳で社長に
36歳で支店長になり、39歳で役員、48歳で3代目の社長に就任しました。ただ、そのタイミングが大変で。会社はピーク時に6400棟超を扱い、全国120カ所以上に拠点があった。ところが私が社長になる頃には、多角化経営の失敗でホテル・銀河高原ビール事業・アメリカの農場・競馬場・タイの水産加工会社など、手を広げすぎた事業が全部赤字という状況でした。
金庫を開けたら現金がなくて、借金だらけ。本で読むような話が現実に起きていた。社員も会社の実態を知らない状況だったので、まず正直に伝えることから始めました。
1800人を集めた箱根合宿
社長就任直後、箱根にあった会社の保養所を研修所にして、当時の1800人の社員を3年かけて合宿をしました。テーマは「ものの考え方」と「人生いかに生きるか」。仕事・自己啓発・家庭の3つを柱に、年目標とその先の夢を一緒に話し合う内容です。。
社員が会社の実情を「そうだったのか」と理解して、「じゃあ社長、一緒にやりましょう」と言ってくれるようになった。その後は拠点を3割減らして立て直しを進めていきました。
お客様に応援される会社というコンセプト
「取りっぱなし・やりっぱなし」業界を変えたかった
住宅業界はかつて、「取りっぱなし・やりっぱなし」の文化がありました。一生に一度の高額な買い物なのに、アフターサービスが疎かになりがちだったんです。私は個人的にその状況が嫌で、営業時代からトランクに掃除道具や手直しの道具を積んで、自分でお客様のアフター対応をしていた。
役員のときにこの仕組みを会社全体に広げようと提案したら、「寝た子を起こすような提案をするな」と却下されました。でもいつか社長になったら必ずやると決めていて、3代目でその機会が来た。
1年に5回は顔を見せる
今は、感謝訪問・感謝祭・年2回発行の夢散歩という自社冊子の配付・カレンダー配付の4つを年間の最低ラインとして徹底しています。全 8万2000件以上の OB 客に年5回は顔を出す。30年前に家を建てたお客様でも、「何かない? 大丈夫? 何かあったら言ってね」とお伝えするだけで、お客様は安心してくれます。
それを端折る店長がいたら、私は怒鳴りつけます。「何のためにお客様の為のシステムをつくったのか」と。弊社は「どんなに小さくなっても、お客様が安心して任せられる日本一の会社」にする、というビジョンです。
紹介がゼロの拠点はすぐわかる
60拠点のなかに、年間の紹介数がゼロという拠点が出ることがある。データを見ればすぐわかって、「なぜゼロか」を聞くと、やっぱり感謝訪問を端折っているんですよね。カレンダーは持参するからチェックが入るけど、他は省いている。日中にお客様が留守でも、夕方や夜に回す工夫をしないといけない。そういうことを繰り返し指導していくのが今の私の仕事です。
業界の大転換と、これからの3本柱
ピーク75万戸から今は20万戸へ
私が入社したのは住宅着工数が日本で一番多かった時代で、年間75万戸という規模でした。それが今は20万戸を切る状況に、リーマンショックやコロナも重なって、ピーク時のマーケットが7割以上消えた計算です。
ホテル事業は今でもコロナ前の水準には戻り切らず、この状況でも黒字を保てているのは、お客様に応援してもらえる体制をつくってきたからだと思っています。弊社は今、社員約750人・約60拠点になりましたが、売上は約300億円の規模で運営しています。
リフォーム・不動産・ホテルの3事業で復活を目指す
これからのキーワードはリフォームと不動産とホテルです。
住宅は以前「20〜30年で建て替える」時代でしたが、今は50〜60年、場合によっては100年もつ設計が当たり前になってきた。弊社はすでに20年以上前から「孫の代まで檜100年住宅」というコンセプトで、檜は100年もっても基礎がもたない為、当社基準による高耐久コンクリート基礎を開発してきました。コンクリート呼強度30N/㎡の採用や十分な養生期間の確保、施工精度の向上などで、長持ちする基礎を目指したのです。新築が減った分、家を長く使うためのリフォーム需要は確実に増えます。
現在は、リフォームと新築部門の統合を進めていて設計士やインテリアコーディネーターといった技術系スタッフがリフォームにも活躍できる体制に変えています。不動産は、戸建ての市場が7割消えた一方で、マーケット自体は5割以上残ると言われています。弊社も投資用マンションや土地の取得・販売・管理という形で強化しています。
ホテルは、海外から直接飛ぶ路線の近くにある施設は好調です。立山・黒部の施設は今年6000万円規模の利益が見込めるほどで、台湾・韓国からの直行便と名古屋・関西からの来訪者が支えています。一方で宴会場中心の施設はコロナ後に需要が戻らず、スクラップ&ビルドを検討しています。温泉があればいいという時代ではなく、空港から近くて観光地として1〜2日楽しめる場所に立地しているかどうかが決め手です。
企業60年滅亡論と若い力
「企業は30年で滅亡する、その倍の60年でも滅亡論がある」と最近よく言っています。マーケットが変わるからです。弊社は今年で創業58年。変わらなければいけないタイミングが、今まさに来ています。
だからこそ、今は新入社員との座談会を年3回やっていて、入社してすぐの時期に「肩の力を抜いていい、できなくて当たり前だから」と伝えています。1年の卒業式には弊社のシティホテルのフレンチフルコースでテーブルマナーを教えながら食事会をする。そんな会社、なかなかないでしょう(笑)。
厳しい上司や環境があったときに親に相談してすぐ辞めてしまうと、逃げる習慣がついてしまう。最低3年は頑張ること、辞めるなら「あの会社にいました」と辞めた会社に挨拶に来られるような辞め方をすること——それを約束しようと話しています。
今のトップ営業の中で、金沢の2人の女性社員が競っているんですよ。資格もすぐ取るし、気合が違う。嬉しい誤算というか、時代が変わったと実感しています。
75歳で会社を去るというのが私の人生設計で、あと2年で6代目の社長に引き継ぐ予定です。でも今の若い社員たちと一緒に「もう一回400億に復活しよう」という話をしていると、本当に楽しい。まだまだやれる、と思っています。
編集後記
「苦労したって言われるけど、何も苦労してないよ」という言葉が頭に残っています。挫折や偶然の連続の中でも、自分が本当にやりたいことと仕事が重なっていたから、どんな状況でも前に進んでこられた——そういう話だったように感じました。お客様に応援される会社をつくるという成田会長のコンセプトは、理念ではなく訪問頻度やデータ管理という具体的なアクションで支えられていて、経営とは突き詰めると人間関係の積み重ねなのだと気づかされました。住宅市場がピーク比7割減という逆境の中で黒字を維持し続ける姿勢から、時代に合わせて変わり続けることの大切さをあらためて学びました。