インタビュー

「五年は辞めない」と決めていた男が、建設DXの旗を掲げるまで

「五年は辞めない」と決めていた男が、建設DXの旗を掲げるまで
PROFILE
株式会社SHO-CASE 代表取締役
髙村 勇介

内装・ディスプレイ業界からのスタート

建設業界との出会い

株式会社SHO-CASEの髙村勇介です。弊社は建設・イベント・内装の現場をDXする会社で、私はもともと建設業界のなかでも内装やイベント空間を創る、ディスプレイ業界と呼ばれるニッチな領域で現場監督をしていました。建設業界を「箱をつくる仕事」だとすると、私たちディスプレイ業界はその「中身をつくる仕事」にあたります。市場規模でいうと建設業界に比べるとかなり小さいのですが、華やかな空間づくりを生業とする、面白い業界なんですよね。

山口県の高専で建設学科を卒業したあと、20歳のときにディスプレイ業界最大手の株式会社乃村工藝社に入社しました。そこから約5年ほど勤めることになります。

株式会社乃村工藝社での五年間

入社してすぐ、「社会人は3年経験しないとわからない」というよくある話を耳にしたのですが、私は「3年ではなにもわからないな」と感じていました。少なくとも5年はやらないと見えてこないものがあるだろうと考え、「なにがあっても5年は辞めない」と自分のなかで決めていたんです。

最初の3年間は展示会やショールームなど、期間の短い現場を担当していました。日本を代表する観光施設の改装工事や、某有名漫画の原画展、大企業の研修施設、東京ゲームショウのブース施工など、幅広い空間づくりに携わらせてもらいました。

4年目からは大型商業施設やホテルなど、工期が半年単位になる現場の部署に異動になりました。展示会の現場はひっきりなしに案件が入ってくるのですが、長期の現場だと、ひとつの現場が終わってから次の現場までのあいだに、少し時間が空くことがあるんですよね。5年目のとき、たまたまその期間ができて、自分を見つめ直す時間ができました。

辞める決意をした理由

ちょうど「5年」という節目を意識していた時期に、新しいことに挑戦したい気持ちと、自分の成長が止まってしまった感覚が重なりました。詳しくは会社の名誉のためにも伏せますが、自分がやりたかったものづくりの道から少しずつ離れていっているように感じ、憧れていた先輩たちの背中がどんどん遠くなっていくような気がしていたんです。

このまま続けても先輩たちのようにはなれなそうだと感じ、25歳という若さもあり、辞めて別の道に進むことも考えはじめました。ちょうどそのタイミングで、最後の現場で仲良くなったフリーランスの現場管理の方から「髙村くんならできると思うから、辞めるならお客さんを紹介するよ」と声をかけてもらい、次につながる話が見えていたこともあって、勢いもあいまって退職を決めました。

独立からシステム開発への転身

独学でシステム開発

退職後は1年ほど、個人事業主として現場ごとに現場管理で入るフリーランスの現場監督をしていました。ただ、このスタイルを50代、60代まで続ける自分の姿がどうしても想像できませんでした。

改めて、自分が会社員を辞めたきっかけを考えると、アナログ業務が原因で増えている残業の多さがありました。残業するのは別に苦では無いのですが、それをコントロールするのが難しいのです。その原因をたどると、建設業界はなにかと紙の書類が多く、そうした業務が負担になっていたことに改めて気づいたんです。それなら、自分でその課題を解決するシステムをつくってみたいと思い立ちました。

ちょうどそう考えていたころ、テレビCMで建設系アプリの広告を見かけ、珍しいなと思ってその会社のホームページを見たら「プログラミングスクールに通ってつくりました」と書いてありました。それを見て、自分でもスクールに通ってつくればいいのだと決心しました。

オリンピックの裏側で

スクールに通おうとしていたのと同じころ、当時は東京オリンピックの前だったのですが、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に出向していた前職時代の後輩から「人手が足りないので、うちに入りませんか」と声をかけてもらいました。楽しそうだし人脈づくりにもなりそうだと思い、フリーランスの現場監督を辞め、契約社員として東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に入ることにしました。

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会での働き方は公務員的で、土日休みで平日勤務というリズムができ、スクールにも通いやすかったんです。土日にスクールで学び、平日は働くというサイクルができたことは、いま振り返ってもよかったことのひとつだと思っています。

創業は成り行きだった

オリンピックで働きながらスクールに通い、自分がつくりたかったシステムを完成させました。それを前職時代の先輩たちに見せたところ「これはぜひ使いたい」という声をもらい、契約を結ぶには法人化が必要だったため、法人化したというのが創業のいきさつです。

最初から起業したい、社長になりたいと思っていたわけではまったくなく、正直なところ成り行きに近い部分もあります。それでも、結果として今はもう6年ほど続けさせてもらっていて、本当にありがたいことだと感じています。使っていた言語はPHP、フレームワークはLaravelだったと思います。スクールで学んだ内容に沿って、自分でつくりたいものをイメージしながらコーディングしていました。

事業のピボットという決断

SaaSの壁にぶつかる

創業当初につくったのは、施工現場の職人の入退場管理を行うSaaSでした。現場でQRコードをスマートフォンでスキャンし、自分の名前を入れるだけで、いつ・誰が・どの現場に入ったかを簡単に管理できるツールです。

このサービスで解決したかったのは、個人情報管理の手間でした。不特定多数の人が出入りする現場では、事故があってはいけないので、緊急連絡先や保険加入の有無といった情報を現場監督が毎回管理する必要があります。大きなゼネコンの現場であれば、顔認証の機械を備えたプレハブの詰め所を用意できますが、私たちのようなイベントや内装の狭い現場では、そうした設備を置く場所も予算もなく、いまだに紙での管理が続いているのが実情でした。

ただ、実際に営業を重ねるなかで、業界や企業規模によって管理したい項目がまったく異なることがわかってきました。たとえば、あるマンションの大規模修繕会社からは「蜂に刺されたことがあるか」という項目を追加できないかと相談されました。ベランダでの塗装作業中に蜂に刺され、2度目に刺されるとアナフィラキシーショックの危険があるため、元請け側で独自の管理をする必要があるとのことでした。一方で、私たちの内装や展示会の現場ではそうした項目を管理したことがありません。業界や企業ごとに管理したい項目・機能の優先順位も異なり、機能追加の要望もさまざまで、なかなかSaaSとしての展開がうまくいきませんでした。

ピボットという決断

資本をきちんと調達して踏ん張れば、道は開けたのかもしれません。ただ私たちにはそれが難しく、2024年ごろ、思いきってピボットすることになりました。創業当時から「これがいいだろう」と信じて4年ほど育ててきたプロダクトを手放すという判断は、私のなかでいちばん苦労した決断でした。我が子のような存在を手放す経験は、正直つらいものがありました。

いまはSaaSとして一律に提供するのではなく、各社ごとにAIやノーコードで安く早くアプリを提供するという形に方針を転換しています。約2年ほど取り組んできて、手応えを感じており、結果的にはよい判断だったと思っていますが、決断そのものはやはり苦しいものでした。

これからのビジョンと若い世代へ

日本一のDXパートナーへ

弊社が目指しているのは、大きく2つです。ひとつは日本一の、建設業界のDX・AI活用パートナーになること。もうひとつは、自分たちでも内装工事を請け負っているからこそ、現場目線を忘れないために、日本一DXしている施工会社になることです。この2つに向かっていくうえでの課題は、まだまだ会社の知名度や実績が足りていないという点だと感じています。

意思決定になる人へ

これから社会に出る学生や、ビジョンと現状のギャップに悩んでいる若い世代に伝えたいのは、「稼ぎたいなら、誰かの意思決定に影響できる人になるべきだ」ということです。「あなたが言うなら買います」というように、誰かの意思決定に影響を与えられるほど、返ってくるリターンは大きくなります。

たとえば、芸能人が使っているからその商品が売れる、だから企業は高い報酬を払ってでも起用したいと考えます。極端な例ですが、トヨタの社長に車を売られるのと、一般の社員に売られるのとでは、説得力がまったく違います。まだなにも持っていないゼロからのスタートだとしても、これから、誰の意思決定に、どれだけの数、影響を与えられるかを意識していけば、おのずと自分の価値も年収も上がっていくと思います。

編集後記

今回お話をうかがって、「5年は辞めない」と決めて踏ん張った時期があったからこそ、その後の挑戦につながったのだと感じました。私自身も学生起業を考えるなかで、「誰かの意思決定になる」という言葉がとても刺さりました。ブランドという言葉を漠然と使うのではなく、そこまで言語化されている点に、髙村さんの経営者としての解像度の高さを感じます。建設業界のDXという壁の高い挑戦を、成り行きから始めて6年続けてこられた姿勢に、勇気をもらえるインタビューでした。