学生時代は、旅とアルバイトに多くの時間を使った
比較的自由度の高い学部を選び、旅とアルバイトに打ち込んだ
大学時代は、比較的自由度の高い学部を選び、旅やアルバイトに多くの時間を使っていました。ウィンドサーフィンのようなアクティビティにも夢中で、机に向かうよりも、自分の足で動いて見たり聞いたりすることのほうが圧倒的に多かったんですよね。今振り返ると、その頃に自分の目で確かめてきた経験が、ものの考え方の土台になっている気がします。
一年間の休学で、南米まで「地べたを這う」旅に出た
その中でも、1年間休学して海外を回っていた時期がありました。ヨーロッパを回った後は、アメリカから今度は陸路で南米へ。飛行機で飛び越えるのではなく、地べたを這うように移動して、その土地の人たちと直接関わっていく感覚が好きだったんですよね。それがなぜか、今の仕事にもつながっている気がしていて。現場に密着したり、顧客のフロントに立つのが好きだったりするのも、もしかしたらそのあたりから来ているのかもしれません。
ちなみに、初の海外は横浜から船でソビエト(今のロシア)に渡りました。モスクワまで8日間かけて行くような旅で、そういうことが好きだったんですよね。
翻訳機もない時代、現地の人との交流で1年半
当時は今のような翻訳機はもちろんありません。それでもしばらく居候させてもらったり、現地の家族にお見合いをすすめられたりと、いろいろなことがありました。あまりに旅が面白くて、休学期間が終わっても帰る気になれず、結局1年半ほど旅を続けていたんですよね。さすがにお金が尽きて帰国しましたけれど、当時は「まともに社会人になれる自信」がまったくなかったのが本音です。
旅費は、春の引っ越しシーズンにトラックの運転手や予備校のチューターをしたりして稼いでいました。当時は南米編のガイドブックがまだ出ていなかったので、情報がほとんどないまま知らない国へ渡り、国境を越えていくような旅でした。何があるかわからないまま進む旅だったからこそ、逆に面白かったんですよね。
政府軍とゲリラ軍が争っている地域を通るバスに乗っていて、乗客全員が降ろされて機関銃を突きつけられながら質問を受けたこともあります。それでも面白さのほうが勝っていたので、だんだん怖さも気にならなくなっていきました。
たまたま出遅れた会社から始まったキャリア
就職活動より旅を選んだ結果、入社したのは光ケーブルのメーカー
日本に帰ってきた時には、周りの学生はほとんど就職先が決まっていて、企業訪問もほぼ終わっている状態でした。その中で、たまたま出遅れていた会社があって、そこに就職したというのが本音です。入社したのは、当時光ケーブルで日本大手だった非鉄金属メーカーで、最初のキャリアは調達の仕事でした。
入社2年目、部門横断プロジェクトの統括役を任される
そこから今にいたるまでのキャリアは、少し長いストーリーになります。入社2年目にして、部門横断のプロジェクトの統括役を任されることになりました。今思えば酷な話だったとも思いますが、最初の1年間は会社のこともよくわからず、社会人としての振る舞いも未熟で、プロジェクトマネジメントの知識もまったくない状態で何もできませんでした。メンバーには工場のベテランたちが揃っていて、突き上げられることも多く、もう泣きそうな状態でしたね。
そこで、大きな目標をいきなり目指すのは難しいと判断して、まず小さな成果から積み上げていくという方針に切り替えました。すると、まとまっていなかったチームが少しずつまとまってきて、最終的には大きな成果を出すことができたんです。うまくいったこと以上に、関わる人の意識や組織そのものが変わっていく過程が面白くて、これが私にとって、マネジメントの面白さに気づいた最初の経験になりました。
ロンドンのビジネススクールへ、そしてコンサルティングの世界へ
組織や人が変わっていく面白さを知ってからは、その仕組みをきちんと学びたいという気持ちが強くなり、欧米のビジネスマンの間で当たり前だったMBA留学を、自分もやってみたいと思うようになりました。ご縁があってロンドンのビジネススクールに進学することになったのですが、当時の会社には研究職向けの大学院派遣制度しかなく、MBAの派遣制度は存在していませんでした。まさか受かるとは思っていなかったのだと思いますが、合格したら急遽その制度を作ってくれて、会社の後押しもあって留学が実現しました。
留学2年目、ロンドンのコンサルティングファームでアルバイトをする機会があり、その経験をもとに卒業論文を書きました。この経験を通じて、企業変革や経営再生を仕事にしたいという思いが明確になり、コンサルティングはそれをさらに実践的に学べる場所だと感じて、その後は外資系のコンサルティングファームの世界に身を置くことになりました(その後、会社から支援を受けた留学費用は返済しています)。
助言する側から、変革を実行する側へ
コンサルティングに約10年間携わる中で、外部から助言するだけではなく、自ら現場に深く入り込み、変革を実行する仕事をしたいという思いが強くなっていきました。旅の中で地べたを這うように現地の人々と関わった経験と同じように、企業の現場に入り込む働き方を求めて、企業再生を担うターンアラウンドマネージャーへと転じたんですよね。ファームを渡り歩きながら経営危機に陥っている会社の立て直しを担当し、その後は自身のコンサルティング会社を立ち上げ、ホテルやハウスメーカーなど、さまざまな業種の経営立て直しに携わってきました。
震災復興地域など東北でコンサルの旅をする中、YUDAミルクと出会う
コンサルとして関わった1社が、今のYUDAミルクの前身だった
そうしたコンサルティング活動の中で関わった会社の1つが、今のYUDAミルクの前身にあたる、当時の湯田牛乳公社でした。食品メーカーへの関わりは私にとっても初めての経験でしたが、当時の湯田牛乳公社は増産して、もっと売ればもっと良くなるということが見えている状態でした。
一方で、行政組織として安定的な運営を重視する文化があり、増産や事業拡大に対しては慎重な姿勢が強くありました。引き合いが増えるという話になると、経営会議の空気が重くなってしまう。決して誰かが悪いわけではなく、公社という立場では、それが自然な判断だったのだと思います。ただ、これはもったいないと感じたんですよね。
そこでまず、業界分析を丁寧に進めたうえで、当社として初めて顧客アンケートを実施しました。自分たちの中の都合や前例ではなく、市場やお客様の声を判断の起点に置く。当たり前のことのようですが、これは会社にとって大きな転換でした。実際にお客様の言葉が届くと、「自分たちの商品はこう見られているのか」「ここを変えればもっと喜ばれるのか」という会話が社内に生まれてきます。単なる一施策ではなく、外に目を向ける組織へ変わっていくための第一歩だったと思っています。
ロゴの「みるくぼーや」に手足をつけた
当社のロゴには「みるくぼーや」というキャラクターがいるのですが、以前は手足がついていない、棒だけの姿でした。そこに手足をつけたのは、単なるデザイン変更のためではありません。指示や環境に応じて受け身で動くのではなく、会社が自らの意思を持ち、自分の足で前へ動き出すことの象徴として、手足をつけたんですよね。社員が毎日目にするものだからこそ、言葉で説明するより伝わるものがあると思っています。
民営化、そして代表就任
そうした取り組みを重ねる中で、会社が今後も成長していく見通しが立ったことから、民営化に踏み切ることになりました。仕掛け人としての責任もありましたし、何より、外から助言する立場ではなく、経営の当事者として変革をやり切りたいという思いがありました。そこで自ら中に入って進めざるを得ないと思い、まずは取締役として入社し、その後代表を務めることになりました。
大切にしているのは「変革プロセス」そのもの
民営化後は、約6年間で売上規模を約3倍に成長させ、現在は年商55億円、従業員126名の企業となりました。ただ、いちばん大切にしているのは、その数字そのものよりも変革のプロセスです。
以前は、町役場の下部組織という立場もあって、安定した運営を重んじる意識が経営幹部にも現場にも根づいていました。そこから、普通の企業、しかもベンチャーに近いくらいの成長意識へと変えていくことを大切にしてきました。売上や利益を増やすだけでなく、それを社員に還元することにもかなり力を入れてきましたね。
学生へのメッセージ「恐れずに進むことが大事」
こうしてお話ししたキャリアは、一見すると順当なものに聞こえるかもしれません。けれど、実際には経営立て直しの仕事の中で社内政治に巻き込まれたり、追い出されそうになったりと、いろいろな出来事がありました。苦労もしましたが、振り返ってみると面白かったですし、経験を通じて学ぶことがとても多かったんですよね。
企業の立て直しなんて茨の道でしかないと、友人や知人からわざわざやらないほうがいいと言われたこともあります。それでも、面白そうだから、自分の勉強になりそうだからと素直になって苦労を買ってみたら、結果的にはとても良かったと思っています。今こうしてYUDAミルクにたどり着き、この仕事もワクワクしながら進められているのは、私だけでなく他の従業員たちも共有している感覚だと思います。だからこそ、恐れずに進むということが大事なんだろうなと思いますね。
今後の展望「拠点拡大とメガファーム構想」
今後については、まだ正式に公表できる段階ではありませんが、拠点を増やし、商品のラインナップも広げていく方向で事業を展開していく予定です。2年前から酪農にも進出していて、数年後にはメガファームと呼べるような大規模な牧場を運営する構想もあります。
本社を置く西和賀町(にしわがまち)は、岩手県でも過疎化率がトップクラスの町です。そうした場所でこのチャレンジを続けているからこそ、取り組みに共感してくれるお客様やファン、取引先が増えていて、コンビニもないこの町に実際に足を運んでくれる人も増えつつあります。酪農の取り組みを通じて、町の活性化も同時に達成していければと思っています。
編集後記
今回のインタビューを通して、瀬川様の学生時代から現在にいたるまでの歩みには、一貫して「面白そう」という好奇心に素直に従う姿勢があると感じました。旅の中で地べたを這うように現地の人と関わった経験が、外から助言するのではなく自ら現場に入り込む働き方につながり、今は経営の当事者として変革を実行されている。安定を重視していた組織が、自らの意思で前へ動き出すまでの過程には、大きな学びがあります。私自身もまだ学生ですが、恐れずに進むという言葉を胸に、これからの挑戦に活かしていきたいと思いました。貴重なお話をありがとうございました。