山岳部のチーフリーダーだった学生時代
北穂高での滑落事故
私は大学院の博士課程を中退しています。大学生時代は山岳部に所属していて、チーフリーダーとして山登りやロッククライミングにたくさんのエネルギーを費やしていました。大学4年生のときにチーフリーダーとして北アルプスの北穂高を登っていたのですが、そこで滑落事故を起こしてしまったのです。頭蓋底骨折という、頭の骨の一部にひびが入るような、絶対安静が必要な大きな事故で、ヘリコプターにザイルで吊るされて救出されました。今でも傷口が残っています。
入院して帰ってきたあとは、しばらく山登りができなくなりました。エネルギーだけはあり余っていて、何かやりたいという気持ちがずっとあったんです。事故があったことで、視野というか、考え方がかえって広がったような感覚がありましたし、価値観も大きく変わりました。
植物が好きで農学の研究者を目指した
もともと植物が好きで、農学の研究者になりたくて農学部に進み、そのまま大学院の修士課程、博士課程へと進んでいきました。山登りができなかった時期のエネルギーを、修士論文のための研究に注ぎ込んでいて、論文を書いたり研究発表をしたりと忙しい毎日を送っていました。
小学校や中学校のころから、友達と魚釣りに行ったり山登りに行ったりする学生時代を過ごしていて、授業にはあまり興味が持てないタイプでした。小学校の先生に「なんか別のこと考えてるだろう」とよく怒られていました。
研究の道から、農業の現場へ
「世のため人のため」に悩んだ研究生活
研究が進むにつれて、今やっている研究が世のため人のために直接役立つのだろうかと思い悩むようになりました。私が取り組んでいたのはかなり基礎的な研究で、品種改良や栽培方法などにすぐ役立つものではなく、植物の探究のような内容だったんです。そうしているうちに、自分が勉強してきた農学の知識や技術を、直接第一次産業に役立てたいと思うようになりました。
全国の農業法人を訪ね歩いた日々
そこから高知や東京、新潟、山口など、各地の農業法人を回るようになりました。1週間ほど職場体験のような形で経営の様子を見せていただくこともあって、やがて自分がやるべきことは農業の現場にあると思うようになっていったんです。
花の海の発起点になった構想
農業塾での発表がきっかけに
そのなかで、より先進的な経営をしていた船方総合農場に、雇ってほしいと直接お願いして面接を受け、働くことになりました。それが今につながる道を選んだ経緯です。
働き始めて3年目くらいのころ、山口県で農業塾が開かれて、その第一期生に選ばれました。1年間、月に一度、これからの農業者は栽培技術だけでなく、マーケティングやマネジメント、農業簿記まで幅広い視野を持たなければならないということで、いろいろな先生方の講義を受ける機会をいただいたんです。
その卒業発表として、自分が考えたシミュレーションの経営内容を発表することになり、私が発表した「大規模園芸農場構想」というものが、そもそもの発起点になりました。関係者や行政の方、他の農業者の前で発表したとき、「そんな大きな農場を作ってどうするんだ」というお叱りも受けました。ただ、当時27、28歳ほどの若者だった私に対して、これからの農業はこういう元気のいい若者がチャレンジ精神にあふれた経営感覚を持ってやっていくべきだという後押しもあって、それならばということで、関係者が集まって動き出したのが、創業の始まりだったんです。
塾には一期生として17名ほどが参加していて、それぞれがシミュレーションを発表しました。夫婦で野菜を作り、その食材でレストランを経営するという構想を実現された方もいますし、私の場合はとても大きな構想だったので、自分ひとりの力でどうにかなったわけではありません。仲間にも、指導者にも恵まれて、今に至っています。
苗の流通に見えたミスマッチ
大規模園芸農場構想にたどり着いた背景には、船方総合農場の園芸部に配属されて苗づくりをしていたときに感じた、大きな課題がありました。当時、苗は市場流通が一般的で、花が咲いたり、ある程度の大きさになったりしたら市場に出荷し、競りで単価が決まる仕組みでした。作れば作っただけ、出荷すれば出荷しただけ引き取ってもらえる一方で、値段は自分たちで決められない世界だったんです。
ちょうどそのころから、ホームセンターなどの量販店で苗が売られるようになってきました。上場企業も多く、全国にチェーン展開しているような店舗では、決められた時期に、決められた単価で、決められた品質の苗が求められます。苗の生産者は、種をまいて、できあがった時点で市場に出荷するというやり方をしており、そこにミスマッチが生じていたのです。
当時、花市場での苗の値段はどんどん下がっていた時代でした。ホームセンター側は苗を売りたいのに、計画的に契約して作ってくれる生産農場が少ない。この課題を解決するために、苗の流通にマッチした農場を作れば、自分たちで値段を決めて、流通業者や販売業者と対等な形で苗を販売できるのではないかと考えました。
先代の社長がよく言っていたのですが、農業者というものは牛を飼って乳を搾る酪農に代表されるように、明日から値段を下げると言われても毎日、搾乳して出荷し続けなければならず、止めたら最悪死んでしまう。暑くなれば牛の体調が悪くなって乳量も減る。そうしたリスクを数多く抱える弱い立場だからこそ、強い経営者にならなければいけないという教えもあって、この構想にたどり着きました。
苗づくりと交流、2つの事業の強み
花の海では苗づくりだけでなく、交流事業部も営んでいます。観光いちご園や野菜もぎ取り農園、地域で栽培された野菜、グループ会社で生産・加工した乳製品や肉製品をふんだんに使ったイタリアン食堂の運営などもおこなっています。 農業の魅力をたくさんの人に伝えたいという思いで、まったく違った2つの事業体を持っていることが強みだと考えています。
お客さまの笑顔が原動力に
やりがいを感じるのは、やはりお客さまに喜んでもらえたときです。「お宅の苗を使ってたくさんのトマトができたよ、ありがとう」と言っていただいたときや、子どもたちが1ヘクタールの面積に咲き誇るひまわり畑を走り回ってはしゃぐ姿を見ているときなどに、やってよかったと感じますね。
大変だったのは、3か年で大きな施設設備をどんどん建てていった時期です。構想が大きかっただけに、その土地の気候や水、地域の方々の理解を得て、気象条件に合った苗づくりが確立できるまでは失敗の連続でした。お客さまにお届けする苗の納期が遅れる、病気でよい苗ができないといったご迷惑をおかけすることも多かったんです。
そこで、失敗した時には必ず原因があるという考え方のもと、原因を究明して、どう改善できるかを集めてノウハウにしていきました。それが今の安定した経営につながっている理由だと感じています。農業は気象条件をもろに受けますし、苗づくりは施設園芸なので環境制御はできても、やはり天候の影響は強く受ける。生き物ならではのコントロールの難しさもあります。研究論文を書くなかで指導教授から鍛えられた論理的で建設的な考え方が、お客さまから厳しいお言葉をいただいたときや、苗がうまくできなかったときの落ち込みを、改善の力に変える大きな原動力になったと感じています。
これからの花の海
苗づくりの事業では、近年増えている異常気象のもとでも安定して苗づくりができる施設整備と人づくり、技術開発を突き詰めて、より付加価値の高い苗づくりをしていきたいと考えています。それを通じて、プロの農家の方にも、家庭菜園を楽しんでいる方にも喜んでいただきたいですね。
交流事業部では、農業を起点として、福祉法人や医療法人、教育法人、地元の小中学校や高校と手を組み、農業を通して世のため人のために役立ちたい、農業の可能性をたくさんの人に知っていただきたいという思いを届けていきたいと思っています。地元の小中一貫校では、「花の海」のいちごを収穫してジャムづくりを体験してもらったり、修学旅行先で自分たちが作ったジャムを観光客の方々に味わってもらい「花の海のいちごジャム」を販売する取り組みにチャレンジしていますし、創業以来、地元の幼稚園や保育園の子どもたちとゴーヤの苗を植えて収穫し、ゴーヤチャンプルーにして一緒に食べるという活動も続けています。 当時の園児だった子が、今では職場体験や就職先として花の海を選んでくれることも増えてきました。
気候変動に対応するための専門知識を持った人材も募集していて、マイナビへの登録や東京での会社説明会にも足を運んでいます。
失敗を恐れず、チャレンジしてほしい
私自身、山から落ちたり、研究者の道ではなく農業の道を選んだりと、紆余曲折がありました。学生のみなさんには、とくに失敗を恐れず、いろいろなことにチャレンジして、失敗も成功もひっくるめてたくさんの経験をしていってほしいと思います。社会人になって経験を積み、家族を持ったり会社で重要な立場になったりすると、大きな失敗はどうしてもできなくなっていきます。だからこそ学生のうちに、さまざまな経験を、そして失敗を重ねて、社会人になってからしっかり羽ばたいていってほしいですね。
編集後記
前島さんのお話を伺って、大きな事故も、農業塾への参加も、すべてが今につながる転機になったのだと感じました。何がきっかけになるかわからないからこそ、学生のうちにチャレンジしてみることの大切さを、あらためて実感するインタビューでした。西日本最大級の農場を築き上げた背景には、失敗を恐れず原因を究明し続ける姿勢があるのだと学ばせていただきました。