少年時代は、とにかく効率を求めていた
雨が降ると喜んでいたサッカー部時代
小学校の記憶にあるのは、主に部活です。サッカー部でキーパーをやっていたんですけど、正直、そんなにやりたかったわけではなくて。雨が降るとサッカー部は休みになるので、いつも「雨降れ」と神頼みをしていました。出たくもない試合に出て、というような感じだったので、もしかしたらあのころから効率ばかり求めていたのかもしれません。全力で「サボりたい」と思っていたので、その全力の向け方が独特だったんだと思います。
中学校は軟式テニス部だったんですけど、正直あまり記憶がなくて。高校生になってからは、本当にアルバイトばかりしていた記憶しかありません。ただテストの成績はよくて、学年一位を取ったこともありました。
稼ぎたかったから、大学には行かなかった
地元が愛知県で、当時はトヨタをはじめとする製造業に就職するのが当たり前という文化があったんです。大学に行こうという発想自体がなくて、それよりもすぐにお金を稼ぎたいという気持ちのほうが強かった。今でもおそらく同じ空気があると思っていて、大学へ行ったとしても、結局はトヨタ系列に就職するという流れが多いんじゃないでしょうか。
工業高校の電子工学科にいたので、コンピューターのおおもとになる部分、たとえばコンデンサーや抵抗、ダイオードといったところから勉強していました。卒業のときにはラジオや基盤を作ったりもしていて、「コンピューターとは何か」「電卓はどうやってできているのか」という、本当に根本的な仕組みを学んでいたんです。ただ、その知識を実際に何かへ応用するという経験は、まだありませんでした。
家庭がそこまで裕福だったわけではなくて、高校に入ってすぐマクドナルドでアルバイトを始めています。当時の時給は 650円でした。両親が共働きで、よく働く人たちだったので、働くことが正義だという価値観が自然と身についていたように思います。だから欲しいものがあれば自分で稼ぐ、というのが当たり前でした。
転職を重ねながら、少しずつ「作る力」を積み上げた
パチンコ製造メーカーを半年で辞めた
高校を卒業して、求人票の中で一番給料が高かったパチンコの製造メーカーに就職しました。工業高校だと、成績のいい人から求人を選べる仕組みだったんです。ただ、半年ほど働いたところで「自分は歯車にはならない」というようなことを言い出して、辞めてしまいました。
次に行ったのは、地元にある鉄を曲げたり付けたりするような、10人から20人ほどの小さな工場です。兄がそこで働いていたのがきっかけで、とりあえず入ってみようという感じでした。
兄の代わりに、いきなり管理職になった
その工場では、私はオイルにまみれながらものを作る側で、兄はスマートに管理職をこなしていました。ところがその兄が突然辞めてしまって。会社から「兄弟なんだから同じことができるだろう」と、管理側にまわされることになったんです。
それまで力仕事しかしてこなかったのに、初めて生産管理という仕事に触れました。人をまとめることも、CADに触れることも、右も左もわからないまま始めることになって。長時間労働が当たり前の時代でしたし、管理職は力を使わない分、みんなが帰ったあとも一人で黙々と作業をしていました。そのときに兄が作っていた Excelや Accessに初めて触れたのが、今につながる原体験だったのかもしれません。
その後、CADを納入してくれていたメーカーの方と仲良くなり、名古屋の CAD販売会社へ転職することになりました。
車のローンと家賃で、残りは3万円だった
CAD販売の仕事を続けるうちに、CADのプロとしての知識と、前職での現場経験・管理経験の両方を持つ人材になっていたんです。工場側からすれば、かなり重宝される存在だったと思います。その流れで、CADの取引先だった富山の工場に転職しました。現場もできて、管理もできて、CADも扱える。自分でもかなり強みのある状態だと感じていました。
ただ、給料は安く、田舎だったこともあって、車のローンと家賃を払うと手元に残るのは3万円ほど。食費も光熱費もまかなえないような生活でした。
気づいたら、パソコンを買っていた
このままでは生きていけないと思い、お金を稼がなきゃと考えました。高校時代にマクドナルドやガソリンスタンドでアルバイトをしていた経験があったので、最初はまた副業でアルバイトをしようと安易に考えていたんです。ところが、気づいたらパソコンを買っていました。
そこから、なぜか買ったパソコンをひたすら触り続ける日々が始まりました。当時はクラウドソーシングのようなサービスもなく、素人がパソコンでお金を稼げるという発想自体がなかった時代です。だから生活はずっと苦しいままでした。それでも、自分の仕事にも役立ちそうだという実感があって、純粋に面白くなっていったんです。
新潟への「人質」出向
富山の会社ではエース的な存在として扱われていたんですけど、取引先だった新潟のサッシメーカーから「腕のいい人材を派遣してほしい」という話があり、私が出向することになりました。冗談半分で「人質」と呼んでいたんですが、社宅の2畳ほどの部屋で、寮生活のような暮らしをしていました。
このまま行くと、次は山形、青森、北海道と転々とする人生になるのではないかと思っていた時期です。そんなときに、これまで独学で積み上げてきたパソコンの知識や工業高校時代の基礎知識、工場の仕組みへの理解が評価されました。Excelや Accessで簡単な業務ツールを作れることが認められて、出向先のグループ会社の社員として、東京・秋葉原へ異動することになったんです。そこから本格的にシステムの専門職としてのキャリアが始まりました。
私は誰かに教わったわけでも、専門の学校に通ったわけでもありません。生活が苦しくて買ったパソコンがすべての始まりで、あとはひたすら参考書を読みまくっただけです。そこから会社を変えながら、二十年ほどIT関連の仕事を続けてきました。
独立、そして創業
40歳で会社員に限界を感じた
会社員時代は、自分でもかなり尖った存在だったと思います。「売り上げが大事なのか、ルールが大事なのか」と、ずっと会社に問い続けていました。半年でトップの成績を取るくらい、売り上げにはこだわりがあったんです。ただ、会社が二度ほど合併を経験する中で、最終的に「うちはルールを大事にする会社です」とはっきり言われたことがありました。尖った人間よりも、安定して稼げる人材のほうが会社としてはありがたい、ということなんだと思います。それを聞いて、自分は会社員には向いていないのだと気づきました。
40歳のとき、会社員としての限界を感じて退職しました。ただ、子どもがまだ小さかったので、働かなければという焦りもあって。IT分野でフリーランスの経験もあったので、最初はフリーランスとして働くつもりでいました。
友人の一言で、会社を作った
友人に相談したところ「どうせやるなら、会社を作っても変わらないよ」と言われたんです。最初は「会社なんて難しいでしょう」と思っていたんですが、「個人事業主に手が生えたようなものだよ」と言われて、それなら、とやってみることにしました。それが創業のきっかけです。思っていたよりも軽い気持ちでのスタートでした。
会社員時代のお客さまに Facebookで独立の報告をしたところ、すぐに連絡をいただいて仕事につながったこともあり、ありがたいことに立ち上げ当初からいくつか仕事をいただける状況でした。
経営で学んだこと
SNSと交流会が、転機になった
創業してからよかったと感じているのは、SNSでの発信です。Facebookはもちろん、TikTokや YouTubeに取り組んだ時期も、かなり手応えがありました。また、交流会に参加して人脈を広げられたことも、会社員のままでは得られなかった財産だと思っています。
バズったあとの反動が、一番つらい
苦労という意味では、多くの経営者と同じように、キャッシュフローには苦しめられました。私たちのような仕事は、成果物ができてお客さまの了承を得て、ようやく請求書を出せるという流れなので、入金までに半年から一年ほどかかることもあります。その間も社員や協力会社への支払いは発生するので、いわゆる黒字倒産に近い、売掛金ばかりが積み上がってキャッシュがまわらない状態を経験しました。
もうひとつ実感しているのは、調子がいいときに手を広げすぎると、その反動が大きいということです。何かがうまくいってバズると、体制を強化するために人を増やしたり、投資を重ねたりします。ところが、それが一気になくなったとき、契約や融資といった負担だけが残ってしまう。ですから、バズったときこそ、あとの反動が一番つらいと感じています。
プロダクトシンクが目指すもの
「想像して創造する」
弊社の理念は「想像して創造する」という言葉に込めています。これはあったら面白い、あったら便利だというものを、世の中にすでにあるかどうかに関係なく、自分たちで作るという考え方です。今の言葉でいえば、マーケットインではなくプロダクトアウトに近いと思います。市場調査をしてから作るのではなく、まず自分たちで思ったものを作ってみて、身近な人に使ってもらう。アップルのような会社も、最初は「なぜそんなものを」と言われながら、それが世の中にはまってバズったのだと思っています。一方で、あらかじめ売れるとわかっているものだけを狙うマーケットインという考え方は、私自身あまり好きではありません。自分が作りたいもの、便利だと思うものを作るというのが、弊社の目指すところです。
毎月1つのサービスをリリースする
今、弊社が力を入れて取り組んでいるのは、月に1つのペースで新しいサービスをリリースすることです。正直、かなりしんどい取り組みではあるんですが、ここ数か月は続けられています。AIの活用によって、ものを作るまでの期間を大きく圧縮できるようになったことが、この挑戦を支えてくれています。
学生へ伝えたいこと
今しかできないことをやる
自分がYouTubeで経営者インタビューを行う際にも、最後に必ず学生へのメッセージをお願いしているんですが、私自身が伝えたいのは「それは今しかできないことなのか」を考えてほしいということです。たとえば遊びに行くという選択は、60代や70代になってもできることかもしれません。だとすれば、そのタイミングは今でなくてもいい。逆に、今しかできないことは確かにあって、それをやらないともったいないと思っています。
私の場合、それは勉強でした。会社員時代、都内へ90分ほどかけて満員電車で通勤していたんですが、その行き帰りの時間、ずっと参考書を読んでいました。書店に行って、読んだことのない本がないというくらい読み込んでいたんです。ただ、今は通勤という習慣自体が減っていますし、プログラムの勉強も AIがかなりの部分を担ってくれる時代になっています。だからこそ、今からしかできないことを見極めて、動いてほしいと思っています。
起業は、選択肢のひとつにすぎない
弊社は、ものづくりを楽しさとともに伝えられる会社でありたいと思っています。日本はものづくりの国だと思っていて、世の中には作る人と売る人がいれば十分だというのが、私の持論です。マーケティングやコンサルティングだけを担う立場については、正直あまり必要性を感じていません。実際に手を動かして何かを生み出す経験を、弊社では積んでもらえるのではないかと思っています。
一方で、安易に起業を勧めることはしていません。実際、去年数か月ほど別の会社に常駐する形で働いた経験があったんですが、そのときにあらためて、会社員という働き方が自分には合わないのだと再認識しました。体がしんどいだけの辛さであれば耐えられても、精神的に「自分は何をやっているんだろう」と感じてしまう辛さは、耐えがたいものがあります。私自身、起業は夢や憧れというよりも、自分に合った働き方を選んだ結果の、ひとつの選択肢だったと捉えています。かっこいいから、社長に憧れるからという理由だけでなく、自分に合っているかどうかで判断してほしいというのが、学生の皆さんへ伝えたいことです。
編集後記
今回のお話を通じて、加藤さんの歩みには「今しかできないことをやる」という一貫した姿勢があることを強く感じました。工場での油まみれの日々から独学でパソコンに向き合い、東京での専門職、そして創業へとつながる道のりは、決して平坦ではなかったはずです。それでも都度、今できることに全力で取り組んできたからこそ、今のプロダクトシンク株式会社があるのだと思います。同じ学生として、環境のせいにせず、今しかできないことを見極める姿勢を見習っていきたいと感じました。