人生の転機は、盲腸の破裂だった
17歳の夏、1ヶ月の入院
高校ではソフトテニスをやっていて、テニス推薦で当時関東2部に位置していた六大学に入りたいと思っていたんです。ところが高2の最後の大会を終えた翌々日に盲腸が破裂してしまって、1ヶ月ほど入院することになってしまいました。
当時17歳の自分にとっては、かなり大きな出来事でした。周りの子たちが部活を引退して「受験頑張るぞ!」って塾に通い始めたり、家庭教師をつけたりしている中で、自分だけまるまる1ヶ月入院してしまったので。テニス推薦の話も少し進んでいたんですけど、大きな手術もしたので、結局その後は指定校推薦で大学を選ぶことになりました。
テニスをやっていない大学で、そもそも自分が行きたいと思っていた大学でもなかったので、4年間は一応過ごしたけれど、っていう感じで。就活でも、周りが英語を活かして外資系企業に挑戦する中で、親が金融機関で働いていたこともあって、安定した働き方が見えている金融機関を志望しました。いくつか内定をいただいた中で農林漁業金融公庫(現:株式会社日本政策金融公庫)を選んだんですが、決め手は「人」でした。
内定を決めた、面接官の温かさ
農林漁業金融公庫って、名前からしてめちゃくちゃ堅そうだし、泥臭そうだし、「田植えさせられそう」って正直思っていたんです。でも一次面接から最終面接まで、どの面接官もみんな素敵な方ばかりで。若手の方も、課長クラスの方も、役員の方も。
「こんな素敵な人たちが働いているんだ」と思ったら、最終面接では「絶対内定取ってやろう」ってすごいガッツが出てきてきました。ありがたいことに内定をいただいて、今でもたまに公庫のことを思い出すのですが、離れてからもやっぱり本当に素敵な会社だったと思っています。
「何もなく」やめた、フリーライターへの転身
勢いで飛び込んだ独立
公庫を経て2度ほど転職をして、最後に在籍していた会社では直属の先輩が、今でいうリモートワークの先駆けみたいなことを2010〜11年頃にすでにやっていて。2人でよく「これ、家で全部仕事できるじゃない」という話をしていました。
私はその頃28〜29歳で、すでに結婚していました。朝早く起きて出社してフルタイムで仕事して、スーパーに寄ってから家に帰って夕飯を作って片付けをして、という忙しいサイクルの中で「こんな生活をあと30年も続けてられない」と、いろいろ考え込んでしまっていた時期でもあり、「仕事のつても人脈もないけど、家で仕事しよう!」と若い勢いでその会社も丸3年でやめてしまいました(笑)。
今から起業する人だと、人脈があってとか、仕事を引き継いで辞めるとか、いろいろあると思うんですけど、私の場合は本当に何も準備しないでやめてしまいました。当時はたまたま持っていたパソコンを使い、アメブロで集客をして仕事をとっていました。たまたま家にあったパソコンが救いでした。
千葉で、広報PRの「一人目」になる
2012年のフリーランス独立から、2014年には法人化して編集プロダクション事業やライター育成事業へ。そしてコロナ禍をきっかけに、縮小傾向になってきたライティング業務から広報PR事業へと軸足を移し、2025年に社名を株式会社グラヴィティPRに変更しました。
調べる限り、千葉市でこの広報PR事業を株式会社化してやっているのはおそらくうちだけで、ありがたいことに、自治体さんからの研修依頼や、千葉県内ではそこそこ知られている企業さんからのお問い合わせもいただけるようになってきています。
生まれ育ちも千葉なので、同じ地元で事業を立ち上げて頑張っていこうとしている志の高い方たちをサポートすることが、一番のモチベーションです。地元の活性化にずっと関わり続けていきたいという思いが、今の私の原動力です。
「伴走型」が生み出す、柔軟な広報支援
小さいからこそできる密着対応
現在のグラヴィティPRは、私と正社員スタッフ1名、業務委託スタッフ1名の計3名体制です。同規模の広報会社と比べて、人員リソースや資本力では大きな会社には勝てない、という認識は持っています。
でも、3人だからこそ、企業様の悩みにかなり柔軟に寄り添えるというのが大きな強みだと思っています。パッケージからはみ出るような細かい依頼、例えば「SNSのここだけちょっとやってほしい」とかに対しても、なるべく「ノー」と言わずに対応したり、外注先を紹介したりして、ご縁があったクライアントさんに細かい部分まで向き合うようにしています。
会議室に缶詰になる、立ち上げ期の伴走
特に広報活動の立ち上げ時期は、クライアントさんも私たちも大変になります。最近だと、都内の会議室を半日貸し切りにして、私たちのスタッフもクライアントのスタッフも全員集まって、みんなで準備を一気に進めるという取り組みをしました。
その場で悩み事や困り事をすぐ解決できるので、半日の生産性がかなり高く、その後すぐに大手メディアの取材が決まるなど、スタートダッシュを切ることができました。こういう「柔軟な伴走」がうちの軸だと感じています。
検索流入が変えた、クライアント層
以前の弊社のクライアントは自分の知人やSNSのフォロワーからお客さんになる方が多くて、年商1億円未満の個人事業主や一人社長が中心でした。ただ、1〜2年前からホームページが機能し始めて、検索流入でのお問い合わせが増えてきて。最近だと従業員8万人規模のグローバル企業の広報や、日本で唯一無二の埼玉県のエンタメ施設の広報、著書を20冊以上出されているベストセラー作家の方なども、すべて指名検索や検索流入で来てくれているんです。今年はホームページや発信にも力を入れているところです。
就活の失敗は、取り返せる
損保会社の最終面接での悔しさ
就活中、実は本当に行きたかったのは損保会社だったんです。でも最終面接でひどい扱いをされて、すごく悔しい思いをしました。今でも思い出すとムカつくくらい(笑)。
でもその悔しさがあったから、公庫との出会いがあって、今に至っている。過去の失敗も全部「今」につながっているんですよね。
「合わなかっただけ」という視点
学生のみなさんは、就活で何かしらの失敗を経験すると思います。でも、それはあなたの価値がその会社に伝わらなかっただけで、合わなかっただけ。世界は広いし、あなたが輝ける場所は必ずどこかにあるので、一つの失敗に固執しない方がいいかなと思います。
過去の選択を正解にするのも不正解にするのも、全部自分次第。私は行きたい大学でもなかったし、行きたい会社でもなかったけれど、全部正解だったと今は思えています。あの大学に行っていたおかげで指定校推薦のルートが開けて、公庫に入れた。公庫で出会った人たちがいたから、独立起業して、今の自分がある。
「置かれた場所で咲きなさい」という好きな言葉があるんですが、まさにそれだなと思っています。最初は嫌だな、行きたくなかった場所だな、と思ってたところでも、行ってみたら思っていたより面白かったり、そもそも「行きたくなかった」ということ自体、自分のただの偏見だった、ってこともあるかもしれません。
若い人たちにも、そんな視点を持っていてほしいなと思います。人生100年と言われる中で、1年2年の失敗なんて、40代にもなると「あ、忘れてたけどそんなこともあったなぁ」レベルのものになります(笑)。
編集後記
「行きたい大学でも、行きたい会社でもなかった」という言葉から始まった今回のインタビュー。計画通りにいかなかったことが次の扉を開けていた、という山田さんのお話に、私自身もすごく励まされました。就活を前にして「ここに入れなかったらどうしよう」と不安になりがちな時期ですが、「合わなかっただけ」という視点は本当に大切だと感じました。また、広報PRという仕事が地域の企業や自治体を「届ける」ためにどれほど力強いツールになりうるか、SNS世代の私たちにとってむしろ得意な領域かもしれない、という言葉も印象的でした。千葉から、全国へ。グラヴィティPRの挑戦をこれからも応援しています。